第十一章

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 久城は二那川の部屋でシャワーを浴びていた。  このバスルームも久しぶりに使う。通いのハウスキーパーが脱衣所に飾っている観葉植物の緑を、なつかしくさえ感じた。  傷の痛みを無視してシャワージェルを肌に滑らせ、完全に落としきれていない汗や痕を流す。横河に触れられた後はいつもそうしたように一連の作業を三度繰り返してからようやく髪を洗い、全身を整える。  湯船に入る前に少しためらってから、結局身を沈めて足を伸ばした。  二那川が好んでいる海外製の入浴剤がほどよい香気を放ち、強張りづめだった四肢をほぐしてゆく。しかし唇から漏れたのは、深い溜息だった。    マンションのエントランスで渋谷を帰らせた二那川は、当たり前のように久城を伴って部屋に戻り、風呂に入ってこいと言った。『時間がかかっても構わん、ゆっくりと浸かってこい』と。  横河に辱められるあの場を一番見せたくなかった二那川に見られてしまい、いっそ消えてしまいたいほどだった久城は、長居するのは遠慮したかった。が、横河の痕を残したままで彼の前にいることも非礼と思え、その命令に従うことにした。正直、あの老人に撫でまわされた嫌悪感に限界が近かったからだ。  いつもの習慣で、シャワーで洗ってからそのまま出ようとしたものの、湯船を利用していないことを見破られそうで、結局こうしている。だが綿のように疲れきっていた肉体が力を取り戻せば取り戻すほど、苦い思いが脳裏を次々と巡った。  久城は浴槽の縁に後頭部を預け、目を閉じる。  ――二那川に完膚なきまでに潰された横河の行く先が、野脇組にどのような影響を及ぼすか。  中島組への内通者がいた事態の収拾。大幹部の一翼が崩れたことによる敵対組織の虎視。警察との取り引き。  いろいろな局面が想定される、けして簡単な話ではない。はっきり言って大変なことだった、舎弟頭がよりによって中島組と内通していたことは。  だから横河は、十四年前に事件があったこの日――すなわち須之内の命日――にしつこくこだわっていたのだと理解した。例の出来過ぎの帳簿は二那川の勢力を覆す起爆剤として相月本人から齎されており、ことを今日起こす気でいたのだと。  だが、目論見は二那川に看破され、完全な失敗に終わった。  結局のところ、哀れな男たちだった。横河も、須之内も。  才気器量ともに衆に優れた男を兄と仰がざるを得なかった凡俗の彼らは、劣等感と嫉妬にまみれながら生きてきたのだろう。そこへ持ってきて、横河の前には野脇の跡取りに相応しい二那川が現れてしまった。鮮烈な存在感と華を持つ二回り近くも年下の男に屈し、後塵を拝するしかないと知った老侠客の憎悪は、兄分の野脇にすら想像できないくらい根強いものだったに違いない。背叛を決意させるほどに。     二那川と野脇の間でどのような話し合いが持たれたにせよ、おやっさんに話は通してあると言い切ったからには、野脇は全てを承知している。今後の組がどうなるかなど、選択肢がありすぎて予測をまとめるのもたやすくはなかったが、幹部の動きが少しでも明らかになれば、道筋は読める――  そこまで至ってから久城は瞼を開き、右手で白濁色の湯を掬った。  くちびるに浮かぶのは、苦い自嘲。  自分がある思考から逃げていることは、とうに察している。  二那川が証文を無効にできた理由と、このマンションに常と変わりなく上げている理由と、横河に外道と罵られたことを無視している理由だ。  それがなぜなのか、判らない。  しかし逃げながらも、バスルームに足を踏み入れた時に女の残り香の有無を確かめ、安堵していることは自覚していた。そして、己を嗤った。  この部屋に帰るのは一週間ぶりだと二那川は話していた。前から女性との噂が頻繁な彼のこと、自分が居なかった間にも呼んでいるはず。単に日数が経って判らなくなっているだけだろう。    右手を湯に沈める。  濁り湯と蒸気越しであろうとも傷や痕が視界に浮かび上がる、おのが肌を久城は凝視した。  横河にこうも暴力を振るわれた醜い身が、二度と二那川に迎え入れられる訳がないし、万が一そうなったとしても、刻まれた穢れを彼に触れさせるわけにはいかない。それならば彼にふさわしい女性を選んでくれるほうが百倍も救われる。たとえ嫉妬に心臓を裂かれる思いをしようとも。これまでが身に過ぎた境遇だったのであって、ただの舎弟に戻るだけだ。    ――舎弟として――    一番目は、舎弟を救おうとした過程で中島組との内通を暴けたからだろう。   けれど二番目が理解できない。横河にまさに凌辱されている最中だった自分を、何事もなかったかのように部屋に上げて、風呂にまで入れたりするとは。  三番目に至っては、想像も不可能だった。あの台詞を聞き逃すような二那川ではないのに。  彼の理性と感情の軸足がどこにあるのかが、掴めない。二週間のブランクは思いのほか大きかった。  ただ、これまでの自分たちには戻れない。それだけは確かだった。  組に居ることはできても、二那川とは微妙な距離を生んだまま過ごすことになるのは目に見えている。いずれ傘下組織に体よく飛ばされる可能性とてある。  どれほど避けても、いずれは辿り着かなければならなかった結論――  久城はもう一度重い溜息を吐くと、湯から上がった。    脱衣所で滴を拭い、髪も乾かしてから、服を再び纏っていく。シャツのボタンを止めているとき、植木鉢が置かれている壁際の床にふと違和感を感じた。何気なく近寄って目を凝らすと、それは口紅だった。  動揺に、呼吸を一瞬忘れた。  留守の際にはハウスキーパーは入らない。とすれば自分が横河のもとに居た時にここに女を呼び、落とし物に気づかぬままホテルに連泊していたのだ。  残り香がないくらいで喜んでいたくせに、横河に蹂躙された己よりも美しい女性の方をと願って、そして現に痕跡を見つけてしまうとこのざまだ。久城は自らの矛盾と甘さにつくづく嫌気が差した。形跡をはっきりと突き付けられることで、予測が現実となった。もう、どうなるものでもなかった。    はじめから判っていたことだ――久城は心の奥で呟くと、繊細な飾りのついた口紅を拾い上げて丁寧に拭い、洗面台の棚に置いた。  舎弟にかけられた一時の情けなど、たかが知れている。諦め切れなかった想いが、横河の行為によってようやく絶たれただけのこと。  そもそも自分の生命そのものに、穢されたなどと言えるような資格も価値もないではないか。そう、これが自分たちにとっての正解なのだ。  何度も言い聞かせながらも、鏡に映る己はまぎれもない絶望を浮かべており、とっさに目を逸らした。  震える心身を必死に鎮め、二那川がいるはずのリビングにゆっくりと向かった。  とにかく自宅マンションに帰り、ひとりになりたかった。  すべての希望を喪ったときの己には、いつも孤独しか残されていない。死ねない身を引きずって生きるしかなかった、十四年前のあの刻と同じように。
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