第十一章

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 風呂から出たら即帰宅を命じられると覚悟していたのに、二那川はリビングにはいなかった。  漂う煙草の薫りに気付いて寝室に視線を移すと、彼はソファに座っていた。テーブルには煙草の箱とデュポン。すでに上着もベストも脱いでネクタイも外し、襟元を緩めている。『お先に失礼させていただきました』と挨拶すると、ああと答えたが、すぐに眉根を寄せた。 「なぜまたその服を着ている」  心底不興そうに、言った。 「叔父貴が用意した服なんぞ二度と着るな、今すぐ捨てろ」  久城は困惑した。どうやら自分は二那川のルールから逸脱してしまったらしい。しかし洋服の換えまではここにはないというのに、何を着て帰れというのだろうか。 「お言葉ですが、今はこれしか服がありません」 「どうせ次の外出まで必要はない。その時に新しい一式を持ってくるよう、渋谷に言ってある」  さらりと語られた答えに理解が追いつく前に、二那川は煙草を揉み消して立ち上がり、言った。 「来い」  久城はやっと、バスルームまで導かれた理由を悟った。  二那川は己を抱こうとしている。一時間前まで横河に組み敷かれていたこの躯を。  予想もしていなかったことだった。女の存在がそれに拍車を掛けた。久城は混乱し、次に激しい心理的拒絶に襲われた。  身動きを忘れて立ち尽くす舎弟に焦れたように、二那川が促した。 「どうした、久城」  開いたホワイトシャツの襟から、たくましい胸板が覗いている。  眩暈がするほどにその肌に焦がれながら、久城は一歩も進むことが出来ず、崩れるように床に膝を突いて頭を垂れた。 「申し訳ありません頭、俺には出来ません、どうかご勘弁下さい」 「何をしている久城、馬鹿、止めるんだ!」  怒鳴られても、久城は微動だにしなかった。これだけは殺されても譲れなかった。泥にまみれたからこそ、やはり自分には二那川に触れられる資格はない。怨嗟のありたけをこの身にぶつけ続けた横河の詛いを、彼に移すわけにはいかなかった。  死を賭した覚悟によって、二那川の怒りがやがて重い沈黙に変わった。  久城の耳を、なかば苛立った語調で繰り返される命令が打った。 「立て、久城。俺はお前にそんなことをさせたいわけじゃない」  ようやく頭を上げた久城は、己に深く苦い眼差しが注がれていたことに気づいた。 「俺に抱かれるのが、嫌になったのか。遠慮はいらん、はっきり言え」 「そ……れは」  無論、違う。今ですら理性の箍を破りかねないほどの欲望と情動が荒れ狂っているというのに、どうしてそんなことがあるだろう。  しかし素直に意思表示することもできず、久城はただ声を詰まらせ、顎を左右にした。  表情を見極めるかのように、さらに二那川はじっと視線を当てて来たが、やがて無言のまま脇をすり抜けてバスルームに向かった。機嫌を損ねすぎたかと久城はひるんだが、しかし彼はすぐに引き返してきた。その右手に光る銀色の小物に、久城が蒼ざめる。 「お前にそうまでさせたのは、こいつか。つくづく女というやつは、下らんことをする」  ダストボックスに無造作に投げ込まれる音が高く響いた。 「――それだけでは、ありません」 「叔父貴に無理強いされたことを、そこまで卑下する必要はない」  弾かれたように目を見開いた久城に、二那川が落ち着いた口調で続けた。 「俺が見抜けないとでも考えていたか。何年の付き合いだと思っている」 「叔父貴は、それだけのことを、俺に」 「言うな、判っている。だがな、そんな遠慮は俺にはいらない。例の女にしろお前が触れたから抱いて、それきりだ」  あれは横河のヤサから逃がした女が残したものだったかと思い至ってから、“お前が触れた女だから”という表現に、心がはっと震えた。  まさか、そう否定しようとした。甘さを棄てるべきだと自分に言い聞かせたばかりなのに、二那川の眼差しに吸い寄せられ、傾いてゆく心の動きを手離せなかった。操られるように立ち上がった。ほぼ同時に、二那川の右手がゆっくりと差し伸べられた。 「来い、久城」  足元はまるで、雲の上を踏み締めているようだった。この情景が夢でなければ何だというのだろう。  わずか数歩で、熱い両腕に抱き止められた。息を呑む間もなく唇を塞がれる。歯列を割って差し入れられる舌に、自分から応えた。  精悍な背、滑らかな肌、紫煙の薫り。  どれほど懐かしかったか。どれほどに焦がれたか。夢ではなかった。己のただひとつの救い、すべてであるその男が、確かに傍にいた。傍にいて、こうして自分を求めてくれていた。  長く、息を継ぐ暇も急いて重ねられた口付けが、名残惜しく離れる。眦にうっすらと滲んだ久城の涙を、二那川の親指がそっと拭った。 「こんな……」  横河にさんざん嬲られた身体で、と言おうとした。  二那川は久城の眸を強く見つめてから、呟いた。 「どうでもいい」  聞いた瞬間、久城の心臓が鋭く軋んだ。投げやりとも取れる答えに、自分の懊悩を否定されたように思った。目を閉じて傷に耐えようとした。しかし続く言葉が、その衝撃を包んだ。 「誰にどうされても、お前はお前だ。叔父貴を殺してやりたいとは思ったがな」  首筋を、くちびるが這う。知らず知らず息が上がる。たくましい背に遠慮がちに指を喰い込ませた。張りのある男盛りの肌が、温かかった。胸郭を打つ鼓動が自然と速くなって行く。  「いいか、責められるべきはお前を助けるのに二週間も掛かった俺だ。お前に非はない、一毫たりとも」 「頭」 「もう、何も言うな」  ふたたびの烈しい口付けが、声を封じこめる。  久城はこの場で生命が尽きても良いとすら思った。  衣服を脱ぎ捨てる間も惜しんで、ふたりは縺れながら傍のベッドに倒れこんだ。  
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