第十二章

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第十二章

 久城が目を覚ましたとき、寝室はベッドサイドの淡いライト以外は何も灯っていなかった。  時計は夜の一時過ぎ。  隣に二那川はいない。  どこまでも静寂が広がる空間に戸惑いながら起き上がり、室内を見回したとき、薄暗い闇の向こうから紫煙が漂ってきていることに気付いた。 「起きたか」  眠れなかったのか、それとも途中でたまたま起きたのか。  シャワーを済ませたのだろう二那川が、Vネックの白いTシャツとグレーのジョガーパンツというラフな格好で足を組んでソファに座っていた。スーツの時と違い、整髪料を付けていない前髪が秀でた額に少し掛かっていて、年齢の印象が異なって見える。  久城は彼の漂わせる男の色気を正視できず、うつむいた。   ところが二那川は煙草を消してこちらに寄って来ると、立てるかと訊ねてくる。 「……大丈夫です。歩けます」 「そうか、なら風呂に行って来い。俺の物だが、着替えを使え」  ワンサイズ違うものの、ここは仕方がない。眠っている間に肌を拭ってもらっていたようで不快ではないが、シャワーを浴びたいのは確かだった。  シャワージェルで軽く全身を洗って出ると、二那川が着ているものと同じブランドのワンセットが籠に放り込まれていた。下着類は予備を置いてあったのが幸いし、その上から袖を通してジョガーパンツも穿いたが、監禁生活で痩せたせいかサイズ違いを抜きにしてもさらに緩く、腰紐を結んだ。  こんな抱き心地の悪い、それも横河に蹂躙されたばかりの身体をあんなにも二那川が烈しく求めてくれたことが、遠い夢か幻のような気がした。そうでないことは、シャワーの時に判ってはいても。  物思いを振り切り、寝室に戻った。  煙草の匂いが薄れた代わりに、紅茶の香りが一面に漂っている。サイドボードに白いマグカップが置いてあった。  二那川にベッドに座るよう言われ、その通りにすると彼も右隣に座る。二人分の体重を支えてマットレスが撓み、二那川の高い体温がより近くなる。 「済まなかったな……お前が食えていないのも疲れているのも判っていたのに、抑えきれなかった」    やはり夢でも、幻でもなかった。久城はどこかほっとして、首を振った。  むしろ二那川が欲しくてたまらなかったのは自分で、謝られるようなことではない。 「飲め。少しは腹の足しになるだろう」  マグカップを差し出される。湯気を表面に浮かべるそれを、目礼して受け取った。  両手で包むと、掌に熱がじんわりと広がってゆく。香り高くあたたかな蒸気が心地良い。半ば瞼を伏せ、少しずつ喉を通すようにした。舌に乗る、ほのかな甘味。砂糖を溶かしていたようだ。  そんな久城を二那川は傍らで見守る。カフェのコーヒーを土産に持ってきた時と同じように、飲み干すまで。  横河の許に居たときに懐かしく回想したその刻が、いま目の前にあるのが嬉しくてならない一方で、じっと傍で見守られているのも気恥ずかしい。こんなにも優しくしないでほしかった。でなければ彼に凭れてしまい、自力で立てなくなる。ひとりで生きて行かなければならないのに……  時間を掛けて飲み終えたカップを二那川が回収してサイドボードに乗せながら、さり気なく指摘してきた。 「さっき、うなされていたぞ」 「……そうです、か」 「実を言うとな。前からなんだ、お前がそうやってうなされてるのは」 「え――」  動揺のせいでまともな相槌を忘れた。初めて聞く話だった。  情事のあとで彼のベッドで眠ったとき、たしかに何度か過去の夢を見た。つい先刻も。だが声を発した自覚もなければ、彼がそのことに言及したことも一度もなかったから、うまく隠せているとばかり思い込んでいた。
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