第十二章

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「そうだったんですか……すみません、うるさくて起こしてしまいましたか」 「いや、煩いとか煩くないとかじゃない――」  即座に否定した二那川の語調に寛大な嘘は見当たらない。うるさくはなかったのだと安心したものの、彼の語尾の残し方が気になった。得体の知れない不安がじわじわと込み上げてくる。 「俺は何か、喋っていたんでしょうか」 「そうだな。喋っていたといえば、喋っていた――お前は、母親を助けようとしていた。いつもな」 「………っ!」  久城は息を引いた。  予想もしていなかった。  そこまで己は話してしまっていたのか、とすれば大なり小なり叫んでいたのではないか。二那川は煩くなかったと語ったが、おそらく以前も今も自分のせいで起きて、そして意図せず耳に入ってしまったのだと察した。 「……すみません……」  弁明に窮し、反射的に謝罪した。 「いい、別に謝ることじゃない――お前が昔のことを何も言わないから、このことは触れないでいた。だがな、叔父貴がお前を掻っ攫ったのが須之内との絡みだとおやっさんに聞いてな……悪いが、おやっさんと俺で調べさせてもらった。お前の父親の親友だった甲斐情報官にも昨日会った」 「甲斐さんに……」  父の旧友の気品ある穏やかな顔が、閉じた瞼の向こうに蘇る。  事件のあとで、彼が何度も自分に言い聞かせてくれた言葉も。  野脇と二那川にばらすと横河が脅してきた、十四年前の事件。横河の汚い口から語られることだけは、絶対に許せなかった。凄まじいほどの拒絶反応だった。  正直な、偽りのない本音を言えば、自分の口からであっても誰にも話したくはない。というより、できそうにない。記憶の封印を全部解き、自分の中から言葉という形で引き出すだけで命を削りそうな気がする、それほどに辛く哀しい両親との永別のことは。  けれど……  二那川が横河の“外道”という表現を無視したばかりか、この十三年、と罵っていたのを久城は今さら思い出す。  とすれば、彼はすでにあらかたを突き止めているのだろう。無意識の自分のうわごとですでに一端を察していたこと、自分を救出するために事件を当たり、正確な情報を得るために甲斐にまで接触してくれていたことを知ると、彼にだけはすべてを話してもいい、話してしまいたいという前向きな気持ちに傾いているのも事実だった。 「甲斐氏は、立派な方だった。不用意な憶測でものを語らず、判明している状況だけを教えてくださった。当然、判らない部分はたくさん残ったが……お前が途方もなく辛い経験をしてきていることは、俺なりに理解したつもりだ」 「二那川さん」  こちらの心情を慮る、抑えた声。  久城は両手の指を組んで、膝の上で握りしめる。  どうしてこうも彼は温かく、今の自分が欲しい言葉をくれるのだろう。  溢れるほどの切なさが胸を詰まらせる。  溺れたくないのに、抗えない力で魂が引き寄せられる。  二那川はいつもこうなのだ。言葉数が決して多い方ではないし、態度にさえ出にくいことがほとんどだが、根底にはさり気ない心遣いが伏流のように隠されている。その長所に本人は無自覚なだけに、よけいに惹きつけられてしまう。 「その記憶を抱えきれないから、未だにうなされるんだろう――俺でなくても、例えばおやっさんでも甲斐氏でも、医者でもいい。もしいつか、少しでも吐き出したいことが出てきたら、誰かに話してみてもいいんじゃないか。それでお前が楽になれるかは判らんが、お前がその都度、したいようにすればいいと俺は思う……皆、お前の味方だ」  もう、だめだった。二那川がおだやかな抑揚で綴るひと言ひと言に、自制の殻が剥がれてゆくのが判った。自分を保てそうにない。  いっそ溺れてしまおうと、そう心を決めた。  一時の刹那、夜闇のなかの短い夢でもいい、彼の懐に飛び込んで、そして現実の世界に――ひとりきりに戻れば良いのだと。  真冬の夜の静寂が、ふたたび室内に落ちる。  自分の浅い息遣いと拍動が、規則正しく聞こえる。  しばらくその音に集中する事で気持ちを整えた久城は、瞼を開いて隣の二那川を見上げ、震える声で告げた。 「俺は……おれは、話すなら貴方に、聞いてもらいたい」 「久城」 「話したい――貴方にしか、話せないんです。聞き苦しいですが……聞いて、もらえますか」  二那川もこちらの目を見つめ返しながら、しっかりとうなずいた。 「いくらでも。ただ、無理はするな」  半端な気持ちでは灯らないその深い目の光に縋るように、久城は語り始めた。  これまで誰にも、一度も話したことのなかった、十四年前のあの日の出来事を。
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