第十二章

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 瑛人の父は小学校中学年までは同居していたが、以降は関東の官舎で単身赴任をしており、A県に住む妻子とは離ればなれの生活だった。  忙しい仕事というのは子供心に理解していたし、子煩悩な父は休暇が取れた時や節目の折には必ず来てくれた。母や祖母に連れられての旅行先で落ち合ったりしていたのもあり、寂しさはなかった。素封家である父方の本家が県内にあり親戚も周囲に多く、本家を差配する祖母も息子の妻子を非常に可愛がっており援助も多岐に渡ったことから、何不自由ない豊かな生活を送っていた。  キャリアは地方と本庁の往復が出世コースだ。父はしばらく警察庁勤務だったのだが、久城が大学を卒業する直前にN県警本部長の内示が下った。そのことを家族に伝えるために、父は久しぶりに有給休暇を使ってA県の自宅に帰って来ることになった。  結婚して二十四年が経とうとも倦怠期というものがなく、仲が良かった母は父の帰省を喜び、今夜は父子の好きな揚げ物のメニューにすると言ってくれた。 「父さんが帰ってくるんじゃ唐揚げもいつもの倍は要るよ、母さん」 「大丈夫よ、安心して。鶏肉二キロ買ってきてるんだから」 「わお、さすが母さんだ」  夕方前に買い物から帰った母と冗談を言い合いながら、瑛人は家の階段を上った。  大学は冬休みに入っており、ゼミにも行かなくて良く、あと半時間で到着するはずの父を待てばよいだけになっていた。それまで暇つぶしに読書かゲームでも、と自室に戻った。    ――半時間後、玄関ドアが開かれる音がして、会話が聞こえた。父が帰って来たと知ったが、ちょうど携帯電話に友人から着信が来たばかりで、すぐ話し終えてあとで出迎えればいいか、と呑気に通話を続けた。  それからほどなく、今度は一階の応接間のあたりからガラスが落ちるような音がした気がして、耳を澄ませるとリビングキッチンの方から両親以外の――成人男性が罵声で喋っているのが聞こえた。ただ事でない事態を察した瑛人は、友人との会話もそこそこに切り上げて急いで階段を下りた。玄関に面した廊下の付きあたりがリビングへの扉だった。半ば開いた扉の飾りガラスの向こうに、大柄な、すさんだ身なりの男が仁王立ちしている後ろ姿が見えた。 「こちとらみじめな貧乏暮らしだってのにそっちは本部長だと!? 冗談じゃねえ、親父が俺を認知さえしてりゃ俺だって今ごろはヤクザなんかじゃなくお偉い奴になってたんだ、全部お前らのせいだ!!」 「お前の母親が、息子の性根に困りはてて失踪したのも父のせいだというのか」  耳にするだけで誰もが足が竦みそうになる、明らかにならず者の狂った怒声だったが、父は母を後ろ手に庇いながら一歩も怯むことなく冷静に受け答えていた。 「ああそうだ、金持ちのくせに親父が金さえケチらなけりゃ俺も盗みなんざしなかったさ、俺が愛人の子ってだけで何もくれなかったお前らのせいじゃなくて、いったい誰のせいだってんだ!?」 「それはまったく違う、父はお前を認知こそしなかったが須之内家に潤沢な金を与えた、だがお前は盗みと暴力をやめずヤクザになった――性根に貧富は関係ない、お前は人様のものとくれば片端から欲しがる生まれつきの盗人にすぎん。あげくの果てに京子と瑛人まで私から盗もうとして、どこまで腐った男なんだ」  自分と母を盗もうとした? この男が?  いったい父は何を言っているのだろう。この須之内という男は何者なのだろう。  瑛人は混乱したまま、男の勢いに怖れをなして廊下を一歩も進めなかった。   「盗もうとした? 冗談いうな、自分の女を取り返して何が悪い、だのにこんな処まで連れてきやがって!!」 「そちらこそ冗談を言うな、京子はお前の女じゃない、私の妻だ。お前が京子に何度もつきまとったことでどれほど傷つけ怯えさせたか判らんのか。京子たちをこのA県に逃したのは久城家の力で二人を護るためだ、当然の措置だ!」 「護った気になってるのか? つくづくおめでたい兄貴だぜ。俺はなあ、お前がおたふくでガキを作れねえって親父から聞いてたんだ。だから代わりに京子を孕ませてやったんだぞ? ここのガキは俺の息子さ、だから京子だって俺の女房になるってわけだ、二人に会ったって当然だろ。お前、何にも知らずに瑛人を自分の息子だと思ってたろ、なあ?」  ――瑛人の全身に、雷が落ちたかのような衝撃が走った。  誰よりも尊敬している父が、父でない?  本当の父が、この野蛮で下劣な侵入者とは?  意味がまったく判らなかった。脳が現実の解釈を拒んでいた。  勝ち誇って高笑いしていた須之内の嘲笑が、微塵も動かない兄の表情を前にして、だんだんと消えていった。父の視線は正眼にかまえた剣士のごとく、ぴたりと相手に据えられている。 「うぬぼれるな、次郎。自分一人が、何もかもを操った気になっているのか。きさまが京子に横恋慕して無理強いをしたことくらい、私は判っていた」 「なん……だって」 「あなた!」
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