第十二章

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 母の振り絞るような悲鳴が、瑛人の耳に虚ろにこだました。父は落ち着きはらった態度のまま、けれど妻への慈しみに溢れた声で、続けた。 「すまない、京子。あの日……次郎が官舎の近所を歩いていたのを、私は見かけたんだ。急いで帰って、お前の様子を見て、何があったか察したよ……お前は私に知られまいとしていた、はやく病院に行かなければと焦っていたのも判っていた。けれど私は、あえて――お前を、抱いた。そうすれば、もし子供が出来ていても、お前は私の子を生んだと思えるだろうから」  わなわなと震える両手を、母は顔に押し当てた。 「あなた、あなた……!」  取り乱して泣き崩れる母の肩を、父が優しく抱いた。呆然と父の告白を見守っていた瑛人は、すでに膝の力が抜けかけていた。  須之内は、掌の上で踊らせていたはずの腹違いの兄に実は自分こそが踊らされていた事実を始めて知り、背をおののかせている。 「帰れ、次郎。二度と姿を見せるな。きさまには京子も瑛人も、絶対に渡さない。私のかけがえのない家族を渡す気は毛頭ない」 「瑛人が息子だって? はっ、エリートだからって綺麗事を言ってんのか、一年も孕ませられなかった種なしのくせして! くそったれが、俺は昔っからお前のそういうお高いところが大っ嫌いなんだよ!!」 「あれは私の息子だ! 京子と大事に育ててきた、たった一人の息子だ! きさまの息子だなどと、断じてない!!」  迷いなき一喝を聞いて怯んだのもつかの間、須之内が大声で吼えながら兄に掴みかかった。  理性が完全に焼き切れた形相でのしかかり、やみくもに拳を振りまわしている。久城が駆けようとした直前、父が須之内の鳩尾を蹴って床に転がし、立ち上がった。安心した次の瞬間――爆竹と同じ音がして、父は芯を失った人形のように腰から崩れおちた。  鮮血が、火花となって散った。  母の絶叫が遠かった。  爆竹の音は、何度も続いた。  仰向けに倒れた父の身体から凄まじい量の血が流れているのを知ったのは、無意識に扉を開けて、大分経った後だった。台所はすでに一面の血の海で、硝煙と鉄錆の匂いが充満していた。 「瑛……人……!」  狂ったように夫に取り縋っていた母が瑛人の姿を認め、いつからそこに、という恐怖をありありと浮かべた。  リボルバーを右手に握りしめたままゆらりと立ちあがった須之内の背中は浅い呼吸に何度も隆起し、興奮のためか眸の焦点が合っていなかった。瑛人の存在を認識はしても、視線を向けることもできないらしかった。 「父さん、は……」  息子の問いに答えるすべを、母は完全に忘れたかのようだった。腕の中で瞑目している夫と、戸口に立ちつくす息子をうつろな目線でかわるがわる見比べ、そして突然鋭く叫んだ。 「瑛人、その男を捕まえなさい、早く! その男を、お父さんを殺した男を捕まえて!!」  子としての、本能だったのだろうか。  父が殺された衝撃も生々しいというのに、一度も声を荒らげたことのない母の絶対的な命令を前にして、瑛人はいつの間にかその通りに動いていた。ハンドボールをこなす若い腕力と瞬発力、相手の放心を頼みに掴みかかり、須之内を背後から一息に羽交い絞めにした。酒の匂いが鼻を衝いた。自分が囚われたとようやく自覚した須之内は、一拍遅れて猛獣のように暴れ始めた。 「やめろ瑛人、俺がお前の父親なんだぞ! そいつは親父なんかじゃない、俺と京子が本物の親なんだぞ、分かってるのか!?」 「そんなけだものの言うことを聞くんじゃないのよ、瑛人!」  引きつった声音が、ぴしりと返した。母の瞳に、すでに正気の色はなかった。その血だらけの手には、まな板にあったはずの西洋包丁が握られていた。 「き……京子? おまえ、まさか」 「この人でなし……瑛人は、私と義明さんの子供なのよ。大事な大事な、あの人との子供なのよ。あんたなんかの息子であって、たまるものですか!!」  やめろ、京子。須之内の絶叫も虚しく、母が両手に持った包丁が、須之内の腹に吸い込まれた。体当たりの衝撃が羽交い絞めにしている自分にも伝わり、須之内の肺腑が潰れた悲鳴が、鼓膜に鈍く突き刺さった。
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