第十二章

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 血は、思っていたよりも出なかった。まるで、ゆっくりと進んで行く映画を観ているようだった。  須之内の身体がずっしりと重くなる。  脚が崩れ落ち、瑛人も引きずられて膝を突いた。  拳銃が、床にぶつかる音。  白く華奢な両手が新たな朱に染まり、優しかった眦は吊りあがり、くちびるは蒼白となって震え、それでも母は柄を握ったままだった。自分も拘束を緩めなかった。ここで腕を放せば須之内が母を返り討つと判っていた。  母の手が、包丁を引き抜いた。  一気に紅い飛沫が迸り、返り血が母の服を汚した。  血脂に滑るのもかまわず渾身の力を籠めて、もう一度刃が振り下ろされる。呻きながら母を罵って止めようとする須之内の声が、徐々に弱くなっていった。  更にもう一度。  その時の母の貌はまさに般若そのものだった。  四度繰り返されたあとに、大柄な男の体躯は細かい痙攣を繰り返すただの物体となり果てた。瑛人の頬にも生暖かい滴が飛び、手も服もおびただしい血に濡れた。    ――なぜ、俺を――    それが瑛人が聞き取れた、叔父の最後の言葉だった。その眼は一度も、母から逸らされることはなかった。  邪恋とはいえ、愛した女に殺される絶望にしわがれた声。  幾度も差しのべようとした手は徹底的に振り払われ、ついに応えることはなく、与えられたのは死のみに終わったのだった。  肩で息を吐きながら、母は須之内の死顔を凄絶な目つきで睨み据えた。 「あの人を……あの人を、よくも。許さない、絶対に許さない……あんたは最初から最後まで、本物の疫病神だったわ……!」 「母……さん」 「瑛人……こんな男の言うことを、本気にしちゃだめよ。この男はね、お父さんの腹違いの弟だなんて間違いとしか思えない、卑怯で最低な人間だった。そんな男の言うことになんて、これっぽっちの真実もありはしないのよ」  言い終えると、張り詰めた気が緩んだのか、もろい微笑がふっと母の顔に浮かんだ。血に塗れた手をゆっくりとエプロンで拭い、跪くと、瑛人の頬を指先でなぞった。その仕草は紛れもなく、母が子を慈しむそれに他ならなかった。   どちらも、泣くことを忘れていた。  瑛人は、魂が抜けたように、ただ呆然としていた。  父が須之内に殺されたこと、母が彼を殺したこと。そして父の子でないと判っていながら母が自分を生んだという須之内の台詞で、思考も感情も飽和してしまっていた。    母は、ずっと自分と父を欺いてきたのか。  父が欺かれているふりをしていたのだということは、先刻明らかになったけれど。  しかし、黙っていたことに変わりはない。  こんな男の息子ではないと言い切った言葉は、裏返せば、そこまで否定しなければならないほど、父親が須之内であるという事実に間違いがないということではないのか――    横たわる父と叔父の亡骸を前に、何も言えずただ血だまりに座り込んでいる息子の顔を、母はいとおしげに見つめる。 「やっぱり、義明さんによく似ている。あの人も若いころは、こんな瞳をしていたのよ……瑛くんが幼稚園のとき、お父さんと寝ていたらまるで小さなあの人が、並んでいるみたいで……ほんとうに、可愛かった」  当時から繰りかえし心の中で反芻し、視野に焼きつけ、だから息子は夫の子であると自らに言い聞かせていたのだろう情景を、母は訥々とつぶやいた。 「瑛くん。可愛い、大事な……」  ――母の背後で、突然大きな音が響いた。  揚げ物の鍋に引火した焔が、いつの間にか天井まで噴き上がっていた。  母は緩慢に振りかえり、炎の朱に白く美しい横顔を染めながら、にっこりと笑った。大量の火が悪魔の手さながら壁紙を這って室内をめぐり、肌を焦がす熱気がすぐ傍に迫っているにもかかわらず、その無邪気さは花火を眺めて喜ぶ童女のようだった。火を恐怖し忌避する動物的な本能によって我に返っていた瑛人は、母の笑みに狂気を認め、背筋が凍った。 「――逃げなさい、瑛人」 「母さん、何を言ってるんだ、一緒に出よう、早くっ!」  細い手首を引っ張って急いで脱出しようとするも、あべこべに母は恐ろしい力で抗い、玄関につながる廊下に息子を突き飛ばした。 「母さんっ!?」 「あなたはお父さんの子よ、瑛人。生きなさい、生きるのよ!!」 「母さん、母さん――!」  ドアが閉じられ、黒煙に煤ける飾りガラスの向こうで、父の遺骸に走り寄る母の背中がかろうじて見えた。  ドアノブが熱気で熔けそうに熱くなっていたのもかまわず瑛人がこじ開けようとしたとき、玄関から近隣の男性たちが飛び込んできた。 「瑛人くん、ここに居たか、早く逃げるんだ!」 「母が、母が中にまだいるんです、母がっ!!」 「もう無理だ、君だけでも早く、危ない――!!」  火の粉を払って三人がかりで引き摺るように連れ出され、煤と血まみれの若い体が道路に横たえられた瞬間、耳をつんざく爆発音が轟いた。  すでに猛火は二階の窓を突き破って家全体に回っており、夕闇を焦がしながら屋根まで焼き尽くそうとしていた。  物心ついたときからずっと家族で暮らし、すべての懐かしい思い出が詰まった大切な家。心の拠り所ともいうべきその場所が両親を抱えたまま灰燼に帰する情景は、錯乱を呼ぶに充分すぎるほどの地獄であった。 「とうさん、かあさん、嫌だ、いやだ、どうして――!!」  手負いの獣のごとくもがき、全身の血を吐き出すように放たれた悲痛な絶叫は、黒煙と共に虚空に消えた。  男性たちが痛ましく瑛人を支える横で、ようやく到着した消防車による放水が始まった。  制止を振りほどいて火の海に飛び込んで行った母の後姿に、瑛人は己が見棄てられたと思いながら意識を失った。
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