第十二章

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 瑛人が軽症の一酸化炭素中毒から回復して病院で目覚めた時、傍らには医師と看護師の他に成人男性がいた。  父の大学時代からの親友で、家族ぐるみで面識のある甲斐だった。本庁で凶事の急報を聞くなり、駆けつけてくれたのだった。  彼らの重い雰囲気を目にして、母も助からなかったことを瑛人は悟らざるを得なかった。   後に甲斐に聞いた話では、母は父に覆いかぶさるように倒れていたということだった。せめて亡骸を焔から庇おうとしたのだろう。    火傷の治療を受けながら精神科医のフォローも受けた。医師にも甲斐にも警察にも、何度も状況を訊ねられたが、瑛人はほとんど話せなかった。須之内は父が刺した――それだけを、告げた。  実父と信じていた人を、ヤクザだという叔父に殺されて。  己が叔父を羽交い絞めにしたために、母は彼を殺めた。  夫を眼前で殺された上に息子の出生の秘密を暴かれ、この世で一番憎んでいた義弟を手に掛けた母は、焔の中に姿を消した。  父が殺されるのを止められなかった自分。  母が義弟を殺す遠因を作ってしまった自分。  そして、夫の傍に駆けた母の狂乱を食い止められなかった自分。  父が帰ったときにすぐ友人との電話を切って出迎えていれば、もっと自分が冷静に行動していれば、もっと母の手首を強く握って引きもどしていれば、いや、そもそも自分が生まれてさえいなければ――入院中も、それから後も、何度思ったことだろう。  自分が須之内次郎という男の子供として生を享けてさえいなければ、あの惨劇は起こらなかったはずなのに。  壁を濡らす鮮血、銃弾でずたずたにされた父の躯、何度も何度も叔父の躯に刃を突き立て、生命を投げ出した母。焔に燃え崩れる実家。  まさに地獄絵図だった。  己が生きる意味を、存在する意味を、瑛人は幾度も問い続けた。  罪を何重にも負ってなお生きなければならない、その理由を。    警察組織で高い地位にあった父の死の真相は闇に葬られ、マスコミにも事件の片鱗すら一切公表されなかった。  ひとり残された息子の名前も表に出ることはなく、いつでも社会に戻ろうと思えば戻れた。しかし両親の惨死を目の当たりにした久城の精神は崩壊寸前となり、まともな生活を送ることは不可能だった。  久城家の縁戚たちにも会うことはできなかった。彼らは瑛人を支えようとしたが、父に腹違いの弟がいると知っていながらずっと隠されていた――先代の不始末である以上、当然の措置だったのだが――ことが辛く、疎遠になった。  甲斐が別の精神科医を勧めるもそれすら受け付けられず、決まっていた就職先も辞退し、両親の遺産を頼りに地元を離れて隣県に出ると、窓を閉め切った薄暗く古いアパートで廃人同様に暮らした。見知らぬ人々の中での絶対の孤独しか、瑛人を護ってくれるものがなかった。  覚えていたくないのに鮮烈に記憶の底に刻まれてしまった情景は眠りのたびに蘇り、現実の感覚をも麻痺させた。目覚めれば自分が自分でないような錯覚に陥り、意識そのものを保つことさえ難しくさせた。  生と死の境界を彷徨う日々の中で、しかし自殺は思いつかなかった。  ――あなたはお父さんの子よ。生きなさい、生きるのよ――  母の叫びが、死への安楽を選ばせてくれなかった。  ――やっぱり、義明さんによく似ている――  息子に、というよりも自身に言い聞かせるように、繰り返し呟いた母。  しかし自分の血は次郎のものなのだと、瑛人は思った。義明が子供を為しにくいと指摘された時の両親の表情が、それを証明していた気がした。  あの凶暴で下劣な男の。そしてその男の子を宿したまま、父の子として育てた母の。  両名の血が、自分の中に流れている。  何よりも大切だった情景を(こわ)してしまったのは、結局は自分の存在。生きている価値もない自分を、なぜ母は産んだのか。なぜ父は自分が生まれるのを黙って見逃したのか。  家族で送っていた平凡で幸せな日々が、実はことごとくが偽りの上に成り立っていたという衝撃に、足元にあるはずの大地が失われた気がした。  一方で、最後の最後で母に見棄てられたと思いながらも、『生きろ』と命じた力強い語気には、義弟への憎悪を超えてたしかに自分への愛情があったと信じたかった。私の息子だと断言した父の力強い意志を信じたかった。  義弟の子を産んだ母への疑念が膨れ上がる一方で、それまで注がれた無数の慈愛の記憶も棄て切れなかった。  敬愛する父を殺した男への憎悪は、そのままその男の血を引いている自身への憎悪に繋がった。  相反する感情と事実に苛まれ、瑛人の心は裂かれた。  臓腑を掻きむしるような苦悩と失意に押し潰されかけても、結局は母の言葉通り生きるしかなかった。人生の意味を、模索するしかなかった。     失われた思考力と意欲を暗闇の中で徐々に回復させて行ったとき、表社会で生きるという選択肢は完全に失われていた。  まともでない男から、まともでない生を与えられた自分には、明るい光と幸福は相応しくない。それまで生きて来たまっとうな世界の、善良な人々に接することさえ憚られた。  ならば、裏社会に赴くしかない。  徹底した自己否定の結論が、皮肉にもこの世で一番憎い須之内と同じ道を歩ませた。     大阪に出て、有名な組の代紋を掲げた事務所に飛び込んだ。  極道への道の、はじまりだった。 
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