第十二章

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「――須之内を殺したのは母親だと、警察にも医師にも言わなかったのは、わざとだな」 「はい……母と彼の昔のいきさつを、誰にも話してはいけない気がして、これだけはと……」 「正当防衛の特例の範囲にはなっても、母親の置かれた状況を捜査しなければならなくなるし、そうなると須之内との事も暴かれる。だが本部長との相討ちにしてしまえば、警察は全力で隠蔽する――警察だって間抜けじゃない、お前の言うことに疑問は山ほど抱いただろうが、何はともあれ揉み消しが重要視された。お前の判断は正しかったな、久城」 「悪人相手だったとはいえ、母が人を殺してしまったという事実を、受け入れがたかったのもあります……俺が証言してしまうことで、本当に起きたことなのだと――俺が須之内の子なんだと、認めてしまうのが怖かった……今でも、そうなんです」  悲嘆に嗄れた声を詰まらせ、前屈みになってうなだれる久城の背をニ那川が左手で緩やかに摩った。  大きく厚みのある掌のぬくもりが哀しいほどに温かく、ひび割れた心に浸透してゆく。 「それでいいんだ。認めても、認めなくても、どちらでも。葛藤して当然だ。お前が悪いわけじゃない」 「貴方と親父さんに過去をばらすと、叔父貴に脅されて――叔父貴が思いこんだままの内容を親父さんに話したら……俺は間違いなく絶縁でした。あの日のことは俺しか知らないのに、でも、本当のことを口にすることも到底無理で……この組を追われたら、俺はどう生きて行けばよいのかと……」 「判っている」  洞察力に欠ける横河は久城の心理を理解せず、自分が真実をすべて掴んでいるから言いなりになっていると信じ切っていた。  それを修正したり訂正する余裕もないほど追いつめられていたのを、いま二那川に一切を告白して、改めて自覚する。 「お前は、母親のことを誰にも喋らず守ろうとした。両親のことを、今でも大切にしているんだな」 「大切……」  父のことは、今でも相変わらず尊敬している。  母については、彼女の行動に疑念はあったものの、好悪や憎悪をそこまで突き詰めて考えたことはなかった。自分が須之内の暴力によって宿った子供という恐ろしい現実と、慣れない極道稼業をこなすことで手一杯だったからだ。  ゆえに二那川に正直に話した。 「母のことは、疑問や混乱のほうが……とても夫婦仲が良かったし、父に心からの愛情を持っていた人でした。父の子じゃないと薄々判っている俺を平気で産めると思えないのに、なぜ……それに、俺と一緒に逃げてくれなかったのもなぜなのかと……」 「平気で義弟の子を生める女なら、そもそも義弟を殺しはしないだろう」 「だったら、なぜ俺を……俺がいなければ、あんなことには――!」    強い語気でみずからの生命そのものを否定しようとする久城を、二那川は咎めてはいないが同意もしていない、真摯な双眸で止めた。そして膝に右肘を突き、指で顎を支えながら考えこむ。 「軽々しいことは言えない、難しい話だ……お前も俺も男で、子を腹で育てる側じゃないからな。しかもお前は当事者だから、そう思ってしまうのも無理はない。ただ、それは結果を見ているからこその結論とも云える」 「………」 「こんなことになるとは、当時の誰も予想できるわけがない――とすれば、産む母親の立場だと、まったく別の話になると思わないか」 「母の……」 「死を考えることもあるくらい辛い出来事なのに、親兄弟にも夫にも相談しにくい。警察に訴えようにも、夫の勤め先だからそれもできん。気の毒だが、どんなに苦しくても、お前の母親は秘密を抱えることしか手立てはなかったんだろう……そこへ、一年以上ずっと待ち望んでいた赤ん坊ができた――」  久城はびくりと身を震わせた。 「嬉しくもあり、一抹の可能性が恐くもあったろうな――とはいえ夫は喜んでいるし、お前が順調に腹の中で大きくなっていくのを見ると、新しい命をどうこうするような決断を、簡単に下せというほうが無理じゃないのか」  二那川に与えられた新しい視点を、久城も母の立場でつぶさに追ってみた。  相思相愛の恋人と結婚して、一日も早くと待ち望みながらも一年以上に渡って子を為せず、若いのにねと周囲に悪気なく訝しまれ、何故だろうという焦り。そこへ、突然の妊娠。逆算してみれば、あの日に宿ったとしか考えられない。  ――今までずっと恵まれなかったのに、いきなりなぜ……まさか須之内の、あの時に病院に行けなかったから……違う、夫ともそうだったから、今度こそ夫の子が宿ったのでは。それに須之内とはたった一度きりのことで、夫とは当然もっと機会を重ねている。だからきっと、夫が子の父親のはず。もしそうだったなら、病院に行くなんて絶対にできない――    確かに、二十二年後に須之内があのような暴挙に出るとは誰ひとりとして考えてもいなかったし、予知も不可能だ。とすれば新しい命が夫の子である確率に母が縋り、信じ、大切にしようとしたとしても、不思議ではなかった。 「お前の父親も、妻が傷つきすぎて話せないのを判っていたから触れなかったんだろう。ただ、もし打ち明けられたとしても、本当の父はどうあれ自分の子だと言い切って、産むよう勧めたはずだ。義明氏はそういう度量の男だったと俺は思う」  ――あれは私の息子だ! 京子と大事に育ててきた、たった一人の息子だ――    父の迷いなき断言が、脳裏に蘇る。 「それに、通説だとか常識なんてものは、所詮あてにはならん。人間の命ってやつは、そんな代物を簡単に超えるからな……」  二那川の述懐に、久城は戦慄した。 「――私が……私が、本当に父の子かもしれない、と?」 「お前の祖父や須之内は義明氏が高熱で駄目になったと思いこんでいたみたいだが、罹患した男が全員そうなるわけじゃない。だからお前の父方の祖母だって、お前を何の疑いもなく可愛がっていただろう? 俺も甲斐氏の話を聞いて写真を見る限り、お前は須之内よりも義明氏のほうにはるかに似ていると思った。俺はな」  ちょっと待て、と言い置いて二那川は寝室から消え、何かを手に隣室から引き返してきた。
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