第十二章

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 それは青いベルベット地の、七センチ角の小さな布袋だった。 「開けてみろ」 「………?」  再び隣に座った二那川に促されるままに、久城は蓋についているホック型の止め具を外した。  白い絹地で丁寧に包まれた中身を取り出し、四辺をひとつずつ外に開く。 「これ、は……」   光沢のある布地の中から出てきたのは、指輪がふたつ。  飾りのない銀色の品で、男物と女物の対になっていると判る。  鼓動が跳ね、久城の息が一瞬止まった。  急いで二那川を振り向いた。   よもや、これは―― 「甲斐氏にお会いしたとき、別れ際に俺が預かった。お前の両親の手に、残っていた結婚指輪だそうだ……当時のお前が不安定な様子を見せていたのと、精神科医にも渡すのはまだ早いと止められて、ずっと保管していたらしい」  二那川によると、甲斐は墓参りのたびに持参していたのだという。寺で会った後に『君から瑛人君に渡してほしい』と託されたのだと。  久城は震える指先で、ふたつのリングを慎重に撫でた。息が掛かれば、触れれば粉々に消えてしまいそうな気がしたから。  火災に耐えられるプラチナ製であったのが幸いしたようで、煤は綺麗に洗われ、形も以前のままだったが、長年密かに仕舞われていたのであろう歳月のくすみは隠せない。  どんな思いで甲斐は保管してくれていたのだろうか。どんな思いで墓参のたびに携えてくれていたのだろうか。  火事で焼けた家には、思い出の品は何ひとつ残っていなかった。家財はおろか、母の衣服も、父の蔵書も。  写真も、記憶にぼんやりと刻まれているのはアルバムの数枚のみ。いずれも父か母が一人息子を抱いたり、二人で寄り添って笑っているものだった。  生まれたとき。入園式、七五三、入学式……  節目のたびに撮影された自分たちの姿が、手繰られるように次々と蘇ってくる。  色褪せた枠の中で愛おしそうに頬ずりされた幼い自分は、丸い顔をさらに丸くして喜んでいた。そんな自分の傍らには必ず、庇護を惜しまぬ両親の手と幸せそうに輝く笑顔があった。  そして両親のその指に嵌められていたのは、まさにこの指輪……  ――久城の両の眸から、涙があふれ落ちていた。  頬をいくつもいくつも伝い落ちる大粒のそれが、絹地を濡らしてゆく。  生まれてきた意味が、あった。  自分は、両親の子としてあんなにも愛されていたではないか。  両親をあんなにも明るい笑顔にさせることが出来ていたではないか。  焔に崩れ落ちたあの幸福の日々は、決して偽りではなかった。  自分の生命には、たしかに意味があったのだ。  なぜ今の今までそれに気づかなかったのだろう。 「っ………!」  うつむき、嗚咽を喉で耐えた久城を、二那川が両腕で抱き寄せた。女々しいと思いつつも、彼の肩を涙で濡らさずにはいられなかった。  支えてくれる腕はどこまでも力強く、温かかった。両親を喪った刻に泣けなかったことを知っているかのように、掌がゆっくりと、何度も髪や背を撫で、無言で促してくる。  泣きたいだけ泣けばいいと。    ――母の最後の言葉の意味が、ようやく判った。  母は夫への誠意と子への愛情に挟まれて苦しみ、父も、妻を護れなかったことに深く傷ついた。けれど、非はないにも関わらず深い心の傷を負わされた妻の懊悩を察していたからこそ、父は沈黙という大きな翼で庇いつづけた。弟の罪を贖うためという小さな枠を超えた、妻への真の愛情によって。  そして自分の血が繋がっている可能性など関係なく、生まれてきた子を実の息子として愛し、可愛がってくれたのだ。  胸を刳る呻吟を抱えながらも息子を愛し育てる二十二年の歳月と思い出が、ふたりの新たな絆を生んで、ある意味では傷を乗り越えさせていたのかもしれない。  母が焔の中に引き返したのは、(かたき)の義弟を殺めた時点で、自分も(ながら)える気はなかったということ。  すべてを察していても何も語らず支えつづけ、最後まで家族を守ろうとして死んでいった夫への償いと、そして、心の底から愛していたから。  それが、母が父の亡骸を庇って共に死んだ理由だった。  決して、息子を見棄てたのではなかったのだ。    二人で築いてきた幸福の象徴が、一人息子の瑛人だった。  夫婦の絆を、歳月を体現している息子を、絶対に死なせるわけには行かなかった。悪辣な義弟のために子の将来を滅ぼされてはならない。殺された夫の子を生きのびさせなければならない――母は本能的にそう思い、叫んだ。  生きろと。  夫婦にとって自らよりも大切な、息子の生命を守るために。    そして自分も、まぎれもなく父と母を愛していた。  二那川が言及したように愛していたから、家族だから、母の願いを守って生き続け、須之内の遺志と呪いを具現化しようとした横河の穢れから両親を守ろうとした。  ただ、それだけが自分たち家族の真実だった。    ようやく顔を起こし、頬を拭い、久城は涙にぼやける手元をもう一度見下ろした。  リングの内側には両親のイニシャルと、結婚した年月日が刻まれているはずだ。  甲斐が両親の命日に二那川に託したこの指輪が、本当の、偽りのない過去に辿りつかせてくれた。  ここまで、どんなに長い時間が掛かったことか…… 「ありがとう……ございました」  両親の想いを、愛情を二度と自分のもとから零さないように、絹地ごと両手で包んだ。万感が迫って声にならない。涙に嗄れる喉からやっと短い礼を絞りだすことができた。  二那川は何も言わず、指輪を包んだ久城の手の上に、自分の掌を重ねてくれた。
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