第十三章

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第十三章

 久城は野脇の許可も得た上でしばらく二那川のマンションで静養することになった。その間に内科医と精神科医を呼ぶことを二那川に勧められたが、両方とも断った。身体も心も、まだ彼以外の誰にもさらけ出す気にはなれなかった。  二那川はそれ以上押さず、体重と体調が改善するまではお前に何もしないと言い切り、実際に横河の処から久城を奪還したあの日以来、二週間が過ぎても約束を守り続けていた。  もっとも横河に連動していた身内の粛清と後始末、年末年始の本部行事で野脇らと忙しく飛び回っていて、そうする暇もなかったという方が正しいだろう。定宿のシティホテルに外泊する日も多く、久城が一人で寝起きすることもしばしばあったからだ。寂しくないと言えば嘘になるが、精神を整理する意味でも、恋情を刺激されないよう距離を保つ意味でも、その方がベターではあったといえる。    野脇から府警の作業班に約束通り引き渡されたHDDに何が入っていたのか、久城は詳しい中身は聞かされていない。あんな代物は知らないに越したことはない、と二那川は多くを語らなかった。  ただ、日本でもトップクラスの企業家である大京の不倫スキャンダルや脱税疑いが唐突に週刊誌にすっぱ抜かれたり、与党幹部の身内の麻薬疑いで麻取マーク、などの派手な見出しが次々と雑誌広告に踊りはじめたのを目にして、ひとつの強固な意図のもとに巨大な包囲網が形成されつつある動きと関係があるのだろうとは感じている。  中島組と相月一味はすっかり大人しくなり、大京や種々のセレブに捜査の手が入りそうなこともあって信用を完全に失墜、シノギの売り上げがガタ落ちしたばかりか口封じに命を狙われており、報復の力もないほど弱っているということだった。横河に二重帳簿を渡したキャバクラとホストクラブを二那川が今回の迷惑料として権利を丸ごと持って行ったのも、かなりのダメージになったことは間違いない。  尾羽打ち枯らし、これまで自分に阿って来た者たちにあべこべに見放され、真綿で首を絞められるように近日の終焉を待つばかりの屈辱と恐怖は、金と恐喝で作った権力に縋って他者を蹴散らしてきた人間にとってもっとも耐えがたい日々だろう。  横河のことは――たまたまだが、さきほどマンションに二那川が戻って来たときに車田から連絡が入り、それで知った。  車田の部隊が身柄を回収して預かったのち、どう“処分”するかが野脇との間で粛々と話し合われたのだという。 『兄貴がの、可哀相じゃけどうしてもちゅうけえ、鎖を噛ませてフカに食わせることは諦めたんじゃ。沖までの運び賃もバカにならんのやないですかと若い衆にも説得されての。漁師の出で、近海のええフカの場所を知っとる子分がおったんじゃがのう……』  この古参の侠客は釣り好きであることもつとに知られている。まるでマグロの爆釣ポイントを逃したといわんばかりに真面目に残念がる台詞に、電話を受けている二那川も横で聞いている久城も苦笑せざるを得なかった。 『お前が半殺しにして虫の息にさせとったけえ、あのままマンションから投げ捨てても良かったんじゃがの、人様が巻き添えになってもいかんじゃろ? 結局、兄貴の言う通りにいったん回収させたんじゃ』  ひねりがのうてつまらんが、山に車を走らせて放っておいたわ。車田はレストランでこのメニューを頼んだ、というのと大差ない語調でそう語った。意識がある状態でそうしたのか、ない状態で放置したのかは不明だが、三日前に発見された横河は“自殺”という形でつつがなく警察に処理されたとのことだった。 『シャバにおるよりムショの方がマシじゃっちゅう奴を、ちゃんと用意しとったんじゃが。たぶん例の元ウラが気ぃ利かせとってじゃけ、もうそれでええじゃろ、二那川』 「ええ。そう処理されたなら、俺が口を挟むことは何もありません。相変わらずのお手並み、さすが叔父貴です。お預けした下っ端のこともよろしくお願いします」  車田は電話の向こうで大笑いし、世辞を言うてもなんもないぞ、今度は二人でツラ見せに来いと締めくくって通話を切った。 「車田の叔父貴、ずいぶんお元気そうですね」 「ああ。京都で悠々自適な感じだな」  横河のことは、久城の中で過去の人物となっていた。  記憶に留めておく価値もない男である以上、久城は努めて思い出さないようにしていた。少なくとも二那川の家でこうして静かに暮らせている間は、それが可能だった。  彼に事件のいきさつを包み隠さず話したことで、長年心を重く圧していた記憶の負担が少し軽くなったこと、そして自分の本当の過去を知って理解してくれている人がいるということが、久城に回復力を与えていたのだった。  数々の仕打ちも含め、当然昇華しきれぬ憎悪も心の傷も残っている。だがあの火事の日、自分の中の血が須之内のものと聞いた瞬間の、心身が内側から穢され粉々に打ち砕かれた気がした絶望に比べれば、幾分は耐えられる。それに二那川や車田が存分に罰を与えることで本人が死者の列に入ったことも、精神面の支えに寄与していた。  二那川自身は、野脇のたっての頼みで横河を半死半生に留めたものの、本来であれば自分で息の根を止めたかったし、制裁としてそうするべきだったと話したが、結果として甲斐の助力もあって二那川に後難のない形で収まったのならば、これで良かったのだと久城は思う。     横河のヤサで唯一、無礼な態度を絶対に取らず庇いさえした田中は横河の失脚後、久城の下に就きたいと申し出てきた。親の借金も残っていて行き場がないのであればそうすれば良いと返答しかけるも、渋谷が『道頓堀どころか淀川に放り込みたくなるのは確実なんで、どうか勘弁してください』と猛反対し、車田の組に預けることになった。老齢の人々も多い組織であるのと気の利く働きぶりが幸いして、車田や幹部から重宝されているらしいと聞き、ひとまずは安心している。
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