第十三章

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 窓から差し込む橙の夕日が、室内に長い影を導いている。  眩しそうに目を細めた二那川は、リビングのソファから立ち上がった。  帰って来るなりの電話でスーツを脱ぐ暇もなく、鬱陶しそうにジャケットの襟に手を掛けるのを、久城は足早に歩み寄って脱衣を手伝った。  ホルスターもまとめて渡される折に、二那川の目線がちらっとこちらの喉元を辿る。久城は抜けている襟をとっさに直した。療養生活に入って以降、外出予定はないにせよ自分に合うサイズの服を何点か買うつもりでいたのだが、なぜか二那川の部屋着しか着用を許されていなかった。  もちろん今着ているVネックのカットソーもスポーツウエアも彼の私物で、襟はおろか身幅も裾も全体的に大きい。ただ二那川の機嫌を損ねるのは本意ではなく、自宅に帰るまでは仕方がないと久城は諦めていた。  銃とホルスターを所定の場所に置いてジャケットをハンガーに掛け終え、振りかえる。  立ったまま携帯電話のメールやメッセージを処理している二那川の後ろ姿は、計算して造形されたような、一点の無駄もない美しさだった。  ベストとホワイトシャツ越しにも明瞭な、広く頼もしい肩。背筋の伸びた姿勢、適度なトレーニングで絞られた腰、長い脚。  瞬間でも視野に映してしまうと、躯の奥がざわめく。端然と纏ったスーツの下に潜む肌身のあの熱さを、逞しい四肢に組み敷かれるときのあの官能を、知ってしまっているがゆえに。  ――なにを、馬鹿な。  ひとりで勝手に意識して勝手に動揺している滑稽な己を振り切ろうと、久城は足早にキッチンに逃げた。ふたり分の食事を作らなければならない。  俳優顔負けの外見で誤解されがちだが、二那川はシンプルな手料理のほうを好んでいる。女性を家に入れることはあっても住まわせたことは一度もなく、自炊が多い男なのだ。なんでも亡くなった父親に、小学生の頃から仕込まれたらしい。  久城も別に料理は苦手ではなく、組に入ったときからなんとなく担当することが多かった。  以前は二那川や同僚に美味いと感想を言われても有難いだけだったのが、ここでの滞在が始まってからは、料理上手だった母がさまざまな味を食べさせてくれた賜物だと思い至り、母を褒められているような誇らしさが勝るようになった。  葬っていた記憶がこうして色彩と立体感を伴って肯定的に蘇りつつあるのも、経緯を知る二那川が己の告白も涙も受け止めてくれたから。  今後自分たちの関係がどうなろうとも、あの夜のことは彼への感謝と共に、一生忘れることはないと思う。  長袖を肘まで捲りながら冷蔵庫の前に立ったとき、声が掛かった。 「久城」  脱衣所の方角だ。食材を出そうとした手を止めて廊下に出る。 「はい」 「シャワーを浴びる、お前も付き合え。メシは俺が後で作るからいい」 「……シャワーに、ですか」 「そうだ。傷を見せろ」  膨らんだ緊張が一気に抜けた。  二週間も過ぎれば傷は治っているものが大半で、腫れも目立たなくなってきている。たぶん安心してもらえるはずだ。多少ぎこちなく足を運べば、シャツを脱いでいる二那川の上半身が不意に眼前に飛び込んできて、心臓が止まりそうになった。  右の僧帽筋を断つように斜めに刻まれた、大きな傷跡。  切ないほどに痛ましく、それでいて彼の性的魅力も否応なく強めている跡は、久城にとってウィークポイントのひとつ。しっかりと身構えていなかった油断を今さら後悔した。 「なんだ、早く来い」  敷居から進めなくなっていることに気付いた二那川が、手首を掴んで強引に脱衣所に移動させ、壁に肩を押しつける。  照明を背にして、こちらを見下ろす双眸の底光――獣の野性を孕んだ昏く危険なそれに、久城の背筋がぞくりと震えた。もう逃げられないという諦念の中に混じる、喰らわれる歓喜の浅ましさに目を伏せる。   二那川が上体を屈める気配。彼の髪がさらりと頬を擦ったのを感じた次の瞬間、襟から覗く鎖骨の上にくちびるが触れ、血を啜るようにきつく吸った。   「あ……」  舌先が喉を這い、耳朶をかるく舐める。久方ぶりの彼の体温と肌の薫りに、久城の理性が砂のように崩れ、形を失ってゆく。二那川の剥き出しの二の腕に縋っても、支えになるどころかかえって悪化する一方だった。彼の手が腰に添えられていなければ、とても立っていられなかっただろう。 「――どうした。見せてみろ」  鼓膜をくすぐるように、からかいを含んで囁く声音。  久城の心身を絡め取り、二那川に命を捧げる贄へと変化させる、その声――  頬にかかる息吹が躯のざわめきをさらに強め、彼に屈服させようとする。抗えない。意識が霞みそうになる。  久城は己を懸命に叱咤し、ほそい返答を気強く絞り出した。 「……これでは、お見せしようにも……」 「じゃあ、手伝ってやる」    カットソーの裾から厚みのある掌が忍びこみ、紺色の長袖をたくしあげる。  されるがままに腕を上げて袖を抜かれた久城は、脇腹にあった、今はほとんど消えている鞭の跡につと触れられ息を呑んだ。 「………っ!」  俯いているあいだに、彼の指先が跡の端から端まで確かめてゆく。  自制をいともたやすく打ち砕く、その仕草。肌同士がほぼ接していない、微かな接触でさえ久城の五感は彼の存在を貪欲に追いかけてしまう。  顔を背けても、全身の血の巡りが速くなり、呼吸が乱れて荒くなるのを止められない。  彼の指は残りの跡も意地悪なくらいにゆっくりと、手触りを味わうようにくまなく辿ってから、ようやく離れた。  満足そうに喉を鳴らした二那川が、久城の全身をぐっと抱き寄せる。素肌で感じる彼の体躯に、そして腰に触れる男の欲に、久城の唇から抑えきれぬ吐息が零れた。その気は微塵もないと見せかけて罠を張った彼が悪いのか、罠と途中で気付きながら逃げられなかった己が悪いのか、もう考えることもできなかった。 「久々に見ると、だいぶ綺麗になってきたな。体重も、少しは戻っているだろう?」 「……は、い……」 「俺が居ない間も、ちゃんと食えよ」  判っている。二那川は痩せて傷だらけのこの身を案じて滞在させているに過ぎない。  他の配下、たとえば渋谷らでも己と同じように弱っていれば、二那川は間違いなく目の届く範囲にしばらく住まわせて気を配る。下っ端の田中のことさえ車田に再度言付けたように。そういう男なのだ。  己が同居を許されているのは、情事の相手でもあるからだと久城は考えていた。横河を殺してやりたいと思ったと彼が述懐したように、人間は誰でも所有物を横取りされれば執着する。その怒りの延長が、この現状だと。  怪我が治り、体重も元に戻れば二那川も安心し、保護を止めるはず。それで済めば良いが、野脇と彼の動きを見るかぎり、横河の失脚による勢力バランスの変化が想定以上に大きそうなのが気がかりだった。そのあおりで自分が別組織に派遣されることも現実味を帯びそうで、そうなれば身体の関係も自然に終わりを告げるに違いなかった。  幸せの時は短いものだ。  いっそ傷が永遠に塞がらなければ、ずっとこうして彼の傍近くに居られるのに――二那川の兄分としての配慮を無碍にする自分勝手な願いを、久城はきつく戒めた。未練がましい振る舞いこそ、彼がもっとも厭うことではないか。 「向こうで、もっとよく見せろ――全部だ」  欲情を露にした低い声が、決定的なひとことを告げる。  バスルームで抱きたいと暗に誘う言葉に、久城は縋るように彼を見つめ、首筋に腕を絡めることで応えた。  ほんの僅かな刻であろうと、二那川に圧倒され支配されることで、彼の傍にいるという実感を得たかった。
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