第十三章

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 多忙な野脇のスケジュールと久城の体調のタイミングがようやく合ったのは、横河のヤサに連れ込まれた日から一ヶ月もあとのことだった。  若手が運転する車で本部事務所に到着し、久々に足を踏み入れると、主だった中堅の組員やいかつい若衆たちが喜色にあふれた笑顔で踵を揃え、頭を下げる。   「お疲れ様です! もうお体はよろしいんで?」 「ぼちぼちといったところだ。ありがとう」  久城が横河に監禁されていたことは当時から内々に収められ、野脇や二那川、車田といった最高幹部以外には二那川の直属である渋谷他、数名が知るのみ。長期の不在は体調不良として通達されており、すれ違う者たちも疑いもせず挨拶してくる。  煙草臭い廊下を進むそのたびに、革靴の音が暗く、硬く響いた。  堅牢な建家内を歩いてみて“戻ってきた”と軽い安堵を感じるほど、この世界で過ごした刻がいつしか長くなっていたことを久城は痛感する。卒論も完成に近づき、都市銀行への入行を控え、父の帰省の報を聞いて料理の量を呑気に心配した十四年前の己。挫折を知らぬまま光に満ちた将来へ向かっていた道が、あの直後に大きく揺さぶられ、捩れることを、当時の自分は予想だにしていなかった――  野脇の事務室前に到着し、ノックすると間髪入れず『入れ』と答えが返る。  扉を開いて室内に入った久城を見るなり野脇は声を上げ、立ち上がった。   「久城。久しぶりやな」 「親父さん。長らく不在にして申し訳ありませんでした」      野脇は堅苦しいことをわざわざ、と言わんばかりに右手を顔の前で左右にすると、机を回り、向き合って歓迎してくれた。肩や腕をスーツの上から何度か擦ると、顔色を確かめるように覗きこむ。 「痩せたいうて二那川が心配そうに話してたが、もうだいぶ前と変わらへんのとちゃうか? お前にはわしのせいで辛い思いをさせた、ほんますまんかったな……」 「いえ、とんでもない――俺こそ親父さんにも頭にも何もお話せず、結果、大変なご迷惑を掛けてしまいました」  事件のことや本当の身元を野脇に黙っていたがゆえに、横河の件を惹起してしまったことも含めて謝ると、気に病む必要はどこにもあらへん、とすぐさま返された。 「他人に言えんものは、誰にだってある。人の集まりの中で、それぞれの時間で飯食って生きとる以上は当たり前やろ。それが人間ちゅうもんや。二那川かて、迷惑やの何のと微塵も思うてへんで」  野脇は言葉を選ぶ素振りもなく、さらりと言い切った。  久城のために配慮と遠慮を重ねて無理に編み出したのではなく、これが彼自身が常日頃から確固と持っている、一種の哲学なのだろう。  率直な彼の見解に、久城も自責の念がいくばくか軽くなるのを覚えた。   「こういう界隈やからな、そらいろんな有象無象が揃うてはおる。そこそこの家やったが借金で身を持ち崩した奴や、親が医者や公務員ちゅう奴もな。せやけどまあ、さすがに親が県警本部長やったちゅうのは、なかなか見んのは事実や」  野脇は苦笑し、続けた。  「お前の親父さんは、皆に慕われる人格者やったと聞いたで。お陰でわしもあの世から助けてもろうたわ」  軽快に繕った語調だったが目元には拭いきれない寂しさが滲み、口元はほろ苦く歪んでいる。  部屋に入った瞬間にも感じたことだが、こうして間近に眺めてみれば、会わなかったここ一ヶ月で髪の量が減り、頬も心なしか削げている。  無理もない。長年に渡って自分の片翼を託してきた弟分に裏切られ、自らの手で死の処断を下さねばならなかったその苦衷は察してあまりある。何も答えられない久城の左肩を、野脇は労わるようにぽんぽんと叩いた。 「お前の前を洗ったときに、親父さんの評判をいくつも小耳に挟んだ。あの甲斐情報官が、自分が死ぬ時まで親友だと断言するだけの人物やった……親父さんの縁でお上に瑕疵を見逃してもらえたことで、うちの組の命運も首の皮一枚で繋がったし、万の子分を路頭に迷わせずに済んだんや。この問題をここまで拗らせたのは、腐れ落ちそうな枝をいつまでもよう斬れへんかったわしの責任や――お前には何の落ち度もあれへんし、親父さんには礼を言いに行かなあかん思うてるんや」  二那川も野脇もそう言ってはくれるが、DNA鑑定をしていない以上、実の父が須之内かもしれない可能性はまだ残っている。  組長の褒め言葉を“実子”として受け取る資格が自分にあるのだろうか、と久城は顔を曇らせ、実は本当の父は、須之…と口を開いた。だが、野脇はもう一度、今度は明るい表情に切り替えて久城の肩をぱんと叩いた。 「十三年や」 「え……?」 「お前が大学出たての青臭いガキの頃から十三年、毎日のように顔を突き合わせて面倒見てきた。そのわしが甲斐情報官からも義明氏の話をよう聞いて、お前は親父さんの息子で間違いないと言うとるんや。須之内やて?あんなど腐れ外道の血なんぞ、お前ん中に絶対流れとるわけがあれへん。安心せえ」  ――己の行く手は、まっとうな正道からはたしかに大きく捩れた。  しかし両親や祖先に顔向けできぬほどに心が堕することなく、今を送ることが出来ているのは野脇の組に入って、彼や二那川に出会えたからだ。目に見えぬ人の心の、情けの価値を知り、決して軽んじない彼らに。  その僥倖を、感動を、しみじみと久城は噛みしめる。 「ありがとうございます……親父さん」  くちびるを震わせ、頭を垂れる久城に野脇はうなずいて、労りの籠った口調で促した。  「体調がもっとしっかりして、時間が出来たら、ご両親の墓参りに行ってやることや。待ってはるやろからな」 「はい――」  職も立場も関係なく、自分にはもったいない、大きな人々だと思った。野脇も、二那川も。  生涯掛けて恩に報いながら彼らを支えて行きたいし、行かねばならないのだ。二那川への私情が報われることがなくとも――久城は改めて己に誓うと、この後もスケジュールが目白押しの野脇に早々に挨拶を済ませ、部屋を退出した。
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