第十三章

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 それから一週間後、久城は二那川に連れられ、両親の墓所に向かった。  渋谷も合わせて付き人五名、三台に分乗という必要最小限の人数での移動である。    冬でありながら天空と海の境界がくっきりと視野に焼きつく、写真か絵画を投影したようなすばらしい昼下がりであった。  高台の駐車場で車を降りると、白い波頭が碧い海を走り、さらにその上を海鳥が競って駆け、飛び交っている。  スーツの上から羽織ったカシミアのコートの裾を風が翻す中、久城は波間を反射する陽光の眩しさに手をかざした。郷愁に駆られたことはこれまでなかったが、こうして故郷を訪れてみるとそれなりに感傷に迫るものがあった。  少し緊張しているのを自覚しつつも、壮大な群青の情景に決意を後押しされているように感じ、潮の香りを吸いこんで気持ちを落ち着かせた。 「行くか」  二那川に静かに促され、久城は彼の後ろを付いて行く。  物心ついてから、久城家は旧藩に仕えた高家だと祖母に教えられた。法事で両親に連れられて墓参りに赴き、周囲よりも明確に広く立派な一角や大型の墓石の数々に、おばあさまの話は本当だったのかと驚いたのを覚えている。  今日も足を踏み入れてみれば印象は何も変わらず、一族の繁栄をその威容で示す見慣れた区画があった。  ただ、以前と違うのは一緒に墓を清めて花を供えた両親が、祖先と同じその墓で眠っていること……  二那川に説明を受けていたとおり、墓所は綺麗に維持され特に清掃をする必要もなかったのだが、久城は丁寧に自分ですべてを行い、花を供え線香に火をつけた。香煙が一面に燻る前で膝を屈めて手を合わせると、立ち上がって墓石を凝視する。  両親の指輪は、ジャケットの内ポケットに入れていた。  かろうじてプラチナが残ったあの業火に包まれ、さらに火葬にも。  二度も焼かれた両親の骨がどうなっていたのか、密葬に出たはずなのに、記憶のページをそこだけ破り取ったかのように完全に抜け落ちている。  父さん、母さん、と声に出して語りかけたかったが、出来なかった。  声にしてしまえば、嗚咽が漏れそうだったからだ。  その代わりに墓石に手を伸ばし、心の中でふたりを呼びながら撫でた。冷たく硬い手触りだったがそれでも両親に触れられた気がして、ひとすじの涙が自然に頬を伝った。  今ごろ二人は祖先たちや祖母と一緒に、安らかな場所にいると信じたかった。 『男の子だって泣いていいんだよ、瑛人。ただ、誰もいないところのほうがいいね』  ごく幼いころ、友達とおもちゃの取り合いで喧嘩して泣いた久城は、男のくせにと相手に捨て台詞を吐かれ、丸い頬にほろほろと涙をこぼしつつ家に帰ったことがあった。  書斎で仕事の調べ物をしていた父は、膝に乗せた息子のたどたどしい訴えに耳を傾け、微笑みながら最後にそう諭すと、大きな掌で頭を撫でて慰めてくれた。 『だれも、いないところでなの……?』 『そうだ。男の子は好きな子や家族、弱い人を守るために強くないとな。そのほうが格好いいだろ?』   威厳がありながら温厚な、聞くそばから心が敬服せずにはいられないあの声が、脳裏にこだまする。  今の自分を見たら、父はきっと同じことを言うのだろう。  そして父もまた、誰もいない処で涙したこともあったのだろう、とも。  強く、スポーツマンで、博識だった憧れの父。懐深く妻子を愛し、あたたかく導いてくれた父。  高潔な夫を誰よりも愛し、尊敬し、家庭をしっかりと支えてきた美しい母。  こんな無惨な最期を遂げてよい両親ではなかった。祖父が浅い考えで作った内密の愛人関係が怨念の根を下ろし、時間を掛けて地中を這い、数多の人々に絡みついて生命までも失わしめた。野脇が語ったように、それが人間なのか。自分たち家族の間で流れていた時間に須之内が鈎で縋りつこうとして引き裂いた結末を含めて、逃れられなかった運命だということなのか。  解らない。自分にはまだ、わからない。  ――父さん、母さん。また、来るから。  しばし無言で亡き両親と語らったのち、ハンカチで密かに頬を押さえて墓石を離れ、線香の火を消す。  久城は後ろで待っていた人々を振り返り、会釈した。 「時間が掛かって、すみません。行きましょう」  憂いを帯びた面持ちで見守っていた二那川が、確かめる。 「もう、いいのか」 「はい。充分です」  他の若衆と共に従う渋谷が、眼鏡の奥の瞼を素早く指先で拭ったのが視界の隅に映った。  生前の両親と会ったことのない人々がこうして悼んでくれたことが息子として素直に有難く、ふたりの早い死が少しは報われたような気がした。  これまでの供養の礼を述べるために久城は顔見知りの住職に会い、今後の費えとしてまとまった金額も丁重に納めた。  本来であれば久城家の後継者であったはずの瑛人の、堅気らしからぬ風貌を目にして思うところもあっただろうが、住職は何も云わず受け取った。 
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