第十三章

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 帰りは宿に一泊すると二那川から聞いていた。  大阪とは逆方面に半時間ほど走った海岸沿いにある、離れメインの小さな温泉宿を貸切ったという。  到着してみれば想像以上に敷地が広く瀟洒な宿で、快適に泊まれそうだった。  離れは全部で十棟、それぞれの建家で距離がある上に独立した庭と掛け流しの露天風呂がついており、二那川と久城の部屋は一階に居間と座敷型の寝室、二階には洋風の寝室とバスルームが併設されたメゾネットタイプになっている。 「……すごいですね」  界隈の付き合いや行事で遠出外泊することはあっても、自らの娯楽のために旅行することのなかった久城は、贅を尽くした和洋折衷の室内に目を丸くした。 「たまにはいいだろう、こういう場所も」 「なんだか、落ち着きません」 「すぐ慣れるさ、お前なら」  墓所の外観から久城家の規模に見当がついたのだろう。久城も否定はしなかった。  実際、本家は地域で一番広大な敷地と純和風の日本家屋を誇り、住み込みの使用人はもちろん定期的に庭師も雇って維持されていたからだ。自分が両親と住んでいた家は洋風のコンパクトな戸建てだったが、二百坪の敷地面積のおかげで延焼に至らなかったのは不幸中の幸いだった。  ソファで寛いでいた二那川は案内役の仲居が淹れていった茶をすぐ飲み干した。暖房で喉が渇いていたらしい。久城が二煎目を注いだ。自分の休みを取ることもさることながら渋谷たちに慰労を与えたくて急遽決めた、と茶の合間に二那川は語ったが、久方ぶりの遠出になるこちらの体力も考慮してくれたのだろうと久城は感じた。 「とても喜んでましたよ、渋谷も他の皆も。いい骨休めになるでしょうね」 「ここは飯も温泉も最高の評判だと選んだのはあいつだからな。俺の財布だから選び放題ってやつだ」  張り切ってネットをしらみつぶしに検索する渋谷の姿が目に浮かぶ。久城はくすっと笑った。 「浴衣に着替えないのか?」 「外に出てからにします」  窓に広がる庭木と海の景色に誘われ、久城は濡れ縁から靴を履いて庭に出た。コートは脱いであるがジャケットは着たままで、そこまで肌寒くはない。  五十坪ほどの広さの庭は巧みに樹木が配されていて、海原を堪能できると同時にプライバシーも完全確保していた。春になれば花々がさぞ美しいことだろうが、今でも常緑樹や生け垣のおかげで独特の風情が醸し出されており、庭師の腕を垣間見ることができる。  冬の早い落日が水平線を朱に染めながら徐々に融けようとしているのを、久城は黙然と見送った。  悠久を刻んで巡る自然の前では、自分の人生など所詮は浜辺の砂と同様に、無数のうちのひとつ。大地や海は人間の営み、哀しみ、喜びなどはるか呑みこみ、昨日と同じように明日も同じ陽を昇らせる。だからといって、割り切ることはできない。忘れることもできない。逃れられなかった運命の理不尽を、いつかは自分も呑みこめる日が来るのだろうか―― 「寒くないか」  物思いと芝生に靴音を消され、気付いたときには襟に黒地のマフラーが巻かれていた。  鼻腔を仄かな煙草とパフュームの薫りが掠める。二那川のものだ。頬に血が上ったが、夕陽に紛れると信じた。 「頭こそ、寒くないんですか」  ジャケットを脱いでホワイトシャツとベスト姿の相手に問うも、茶で暑くなったとあっさり返される。そういえばこの男は相当な筋肉質のせいか暑がりだったと思い当たった。  ――この刻も、いつかは終わってしまう。  隣で海を眺める二那川の、夕陽を浴びて陰影を増した美しい横顔に見惚れつつ、久城は恐れる。  身体に跡は多少残っているものの、傷口自体は全部塞がっている。それなのに二那川が己をマンションに滞在させたままなのが久城は不思議でならなかった。前に帰宅して以降、また頻繁な外泊が続いているから、多忙で細かいことをいちいち指示していられないのかもしれない。  だとすれば、いま自分から切り出すべきではないのか。  二那川が住んでいる場所で彼と寝食を共にする時間に馴染んで、離れられなくなるのが恐かった。  その一方で、自宅に帰りますと申し出れば『そうだな、もう治ったしそろそろ帰れ』と返されるだろう、その言葉を聞くのも恐かった。  うつむいて、マフラーに顎を埋める。  二那川の体温を移したような柔らかく温かいカシミアの肌触りに、胸が絞られる。  彼の懐に身を委ねて良いのは事件の真相を打ち明けたあの夜だけのこと、あとは孤独に戻ろうと決めたはずなのに。決めたそばから二那川に新たな優しさを注がれ、久城の心は乱れる一方だった。兄分としての義務感に加え、横河の監禁暴力と両親の事件への憐憫もあるのだろうが、今の久城にはその同情が有難くも辛い。身体だけを供すればそれでいいとこちら側も割り切れるような、二那川がそんな冷たい男であればどんなに楽だったか…… 「久しぶりの帰省で、疲れただろう」  こちらを気づかう視線。  ああ、まただ。  これ以上はいけない――ひとりで立てなくなる前に、陥穽に足を踏み外す前に、自分の力を使って止まらければ。  久城は非礼にならないよう目線を合わせながら、堅苦しい声で何とか応じた。 「いえ……そこまでは。墓参りが出来て、安心しましたし」 「何か、ご両親に話したのか」 「今まで来られなくて、済まなかったと……それから俺を産んで、大切に育ててくれて、ありがとうと」 「そうか」  ぎこちない答えを咎めもせず二那川が浮かべた笑みには、いつものゆったりとした広やかなものばかりではなく、どこか、もっと深い、名状しがたい何かが内包されているように感じた。十三年を近接して過ごしてきた歳月に加え、彼の些細な表情さえも取りこぼすまいとする密かな想いがなければ、おそらく見逃していただろうほどの、かすかな色合いだったが。  理由を探すべきか、それとも措いておくべきかと迷うも、久城は知りたいという希求に勝てず、直感のままに口にしてしまった。 「……頭も何か、俺の両親に?」  勘付かれたか、という風に二那川は眉を跳ねあげ、右の口角をかすかに持ち上げた。 「まあ、な」 「そうでしたか……いったい、何をお話しに? シノギをもっと頑張らせます、ですか」  自分らしくない冗談口を綴ってしまったのは、詮索の罪悪感をごまかすためか。墓参という直接の行動によって、精神に新たな区切りをつけることが出来たからか。  二那川なら、即妙の答えで軽快に応じてくると考えていた。  だが、決して冗談と呼べるような浅い内容ではなかったのを、久城は真剣にこちらを見つめる二那川のまなざしに知った。凛とした双眸が夕闇を弾いて湛える、心の奥底まで喰い入るような光が、ほのかな、けれど確実な何かの予感をもたらした。我知らず息を止め、次の言葉を待った。たった数秒の間が、何時間にも思えた。  二那川が久城の反応を見極めるように目を細め、静かに告げた。 「――お前を、これからは俺が護ると。一生を賭けて、必ずとな」 「そ、……れは……」  潮風に混じって届いた誓約を、呆然と立ち尽くして聞いた。  耳では聴こえていても、脳が理解を拒んでいるかのように語義が頭に入ってこなかった。  まさか……ありえない。  そんなはずはない。都合よく解釈してはいけない。勘違いだ。上司格の兄分として、弟分を見放さずにいると約束しているだけだ。野脇が最後の最後まで横河を信じたように。  どう答えるべきか、感情と理性が入り乱れて最適解がなかなか出て来ない。  早く返さなければと焦るも、勘違いも否定もしていない無難な語彙を探せば探すほど、自分の中から言葉が逃げてゆく。 「久城」  唇を軽く開き、無言で瞬くしかない久城の左頬に、二那川の指先が触れる。  冷え切った肌でそこだけが、火傷をしたように熱く感じる。 「俺が勝手にお前に惚れて、そうしようと決めただけだ。無理に信じなくていいし、応えなくていい」  頭が、足元が狼狽でぐらつくようで、立つのもやっとだった。胸郭を叩く心臓の音が、耳の傍で早鐘のように鳴っている。
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