第十三章

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 叶うはずのない想いだと諦めていた。あってはならないことと自制しながらも焦がれ、求めずにはいられなかった。  身体を結べただけで奇跡だったし、いつか飽きられる日を覚悟しつつ、せめて配下として側に居られればと願っていた、つい先刻まで怖れていたように。  それが――聞き間違いでなければ、二那川は、自分のことを舎弟としてだけではなく人間としても唯一無二の存在だと言ってくれている。  夢を見ているのではないだろうか。 「……貴方は、俺と違う。ずっと……そう思っていました」  二那川の瞳に誘われるように、心の奥底にひた隠していた真情を、唇を通して少しずつ紡いでゆく。 「俺には女を愛する力がない、でも貴方は違う。そしていつか親父さんの跡目を継いで、俺には手の届かない人になる――届いてはいけない人なのだと」  野脇の、寂しそうな表情が記憶の中に浮かんだ。  二次団体の長であろうと、二那川は一次団体においてNo.2の立場で、上には野脇が、すぐ隣には自分がいる。しかしピラミッドの頂点に立ったとき、彼の上にも隣にも、誰もいなくなる。  それがトップというものなのだと。  冷徹な野脇でさえ、長年の舎弟である横河を最後まで切れなかった。ただ一人の立場という重圧は、想像を絶する孤独感との戦いでもある。  その孤高を癒して支えるのは二那川に家庭を与えられる、組に関わりのない女性の方が相応しいと思うのだ。己の父が母と出会うことで過酷な勉学や任務に耐えたように。  そもそも自分たちの関係はごく一部に知られてはいるものの、二那川がNo.2の立場だからこそ見逃されてきた側面もあると久城は心得ていた。  彼が跡目を継げばより多くの衆目に晒され、悟られる。頭領の自覚への要求も厳しくなる。古風な裏社会組織を率いるからこそ、女性のパートナーがいないというのはかなりの反目や好奇をくらうのは必定だ。口さがない批判を二那川が浴びるところを見るのは耐えがたい。  二那川は久城の躊躇いを否定することなく、指の背で頬の曲線をなぞりながら、噛んで含めるように応じた。 「跡目を継いでも継がなくても、俺は俺だ。それに反社だからこそ、どこよりも早く世間の変化について行くべきだろう――相月にうちの組が足元を掬われかけたのは、奴のシノギや遣り口のほうが時代の流れに合っていたからだ。俺は叔父貴のように時代錯誤にしがみつく気はないし、改革に反発はつきものだ」  そして、お前はどうしたいと訊ねられた。 「俺が、ですか」 「お前が俺の流儀に付いて行けないと思うのなら、それでいい。さっきも話したように、俺の気持ちはあくまで俺の勝手だ。お前が無理に従う必要はないんだ」  何という強い男だろう。自身が切り拓いて進もうとしている道のためなら(いにしえ)の常識すらも不要と断じ、数多のしがらみを迷いなく断ち切り、振り払うという。  彼に付いて行けないわけが、付いて行きたくないわけがない。  何故なら、彼は。  「貴方は、俺にとっては光で、たったひとつの救いです。貴方がいなければ……俺は、生きられない」  二那川が、ゆっくりと微笑した。 「――そんなことを話して大丈夫か、久城。いいように誤解するぞ」 「誤解では、ありません。俺は……俺は、貴方に欲しいと云われたとき、嬉しかったのです。それだけで充分だと、ずっと、自分に言い聞かせて――」  途切れ途切れの声は、かたく抱きしめられた肩にくぐもって消えた。 「うそ……なのでは」 「嘘じゃない」 「本当に……ほんとうに、貴方の傍に、ずっと居て……いいのですか」  互いの間にわずかな空隙が介在することさえ許さない、鼓動をひとつにするような二那川の抱擁に囚われても、久城は怯えていた。幸福というものは掴みどころがなく、得たと思っても次の瞬間には儚くこぼれ落ちると信じていた。ならば一刻も早く醒めてほしかった。息も出来ぬほど溺れた果てに絶望を突きつけられ、命を喪う前に。  二那川が顎に手を添え、目を合わせてきた。  寄る辺のない子供のように瞳を震わせる久城を見るなり辛そうに顔を歪め、くちびるを塞ぐ。  慰めと、迷いを断ち切るほどの独占欲の綯い混ざった接吻。舌ばかりか呼吸まで吸われ、角度を変えて巧みに口内を擽られる。これまで彼と交わしてきたどんなキスとも違う、剥き出しの熱情をぶつけて来るような烈しさに、意識が遠くなりそうだった。  広い背に縋り、受け止めるのが精一杯の久城の舌をさんざんに翻弄してから、二那川が濡れたくちびるをようやく離した。 「――いいに、決まっている」 「頭……」 「俺の傍に居ろ、瑛人。この一生も、その先も俺はお前を絶対に離さん」  惜しみなく注がれる誠実と情熱に、全身があまく痺れてゆく。  紫煙と微かな香水の混じった薫りに酔い痴れる。  久城は二那川の肩に頬を埋め、目を閉じた。  潮風の冷たさを忘れてしまうほどに、温かかった。  夢でも、幻でもない。生涯を捧げるほど想っている相手に等しく想われる、その幸福が、現実に己の眼前にあるとは。  本当に自分は、いつも気付くのが遅い。    ――誰にどうされても、お前はお前だ――    あの時に、思い至るべきだったのだ。  お前が触れた女だからという理由で、横河に蹂躙されたばかりの身だろうと関係ないという断言で、肌の境界を見失うほど細やかに全身を労わられ、すべてを求められた逢瀬で。  そして何よりも、横河の拘束から救うために過去を遡り、魂を縛りつけていた軛と闇を断ち切ってくれたその行動で。  こんなにも自分は、彼に愛されていたのだと。彼に支えられていたのだということを。    ――お前に非はない、一毫たりとも――    この男は、自らに鞭を振るい崩壊の淵に堕ちようとする己を必ず救ってくれる。  その言葉で、その声で、その視線で、その腕で繋ぎ止め、大地に立たせてくれる。  関西だけでなく東海をもいつか制覇するのが、彼の悲願。その闘いの伴侶は久城以外にいないのだと、彼は言い切った。  本人ですら愛せない、存在そのものを頭から拒絶し続けてきた『久城瑛人』という人間を、二那川は何の躊躇いもなくすべて肯定し、求めて来る。  ――やっと、生きられる。久城はそう思った。  人間は何かに求められなければ生きられない。自分が自分の生をまったく求めず、他者から求められる度合いが弱ければ、死したも同じことなのだから。 「二那川、さん……」 「名前を呼べ、瑛人」  逃避を許さない、短い命令。  ずっと兄分として敬ってきた彼の名を直に呼ぶなど思ってもみない、とんでもないことだった。  顔を上げた久城は懸命に首を左右にするも、促すように親指で唇をなぞられ、二那川の双眸の強靭な光に導かれ、惹かれるままにその名を音に乗せた。 「……武、和さん」  消え入るようにかろうじて呟いた瞬間、こちらを見下ろす鋭い眦がみるみる和らぐ。  顎をたどる悪戯な唇が耳朶に触れ、久城の心を掻き乱すあの声で囁く。 「さっきの、返事は?」  もう、何も答えられない。羞恥と混乱と幸福感で胸が一杯で、頭も言葉も空回りしてしまう。  かろうじて残った力を振り絞って、頷いた。  二那川は久城の云いたいこと、伝えたいことを正確に受け取ったのだろう。それ以上は促して来ず、代わりにやわらかな口づけを贈ってくれた。
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