最終章

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最終章

 三月に入り、久城は定年退官した甲斐と菩提寺の集会所で待ち合わせた。  甲斐の連絡先を知っている住職を介し、一度お会いできないかと伝えたところ、墓参して親友夫妻に退官の報を行うつもりだったという返答があり、その日に再会することになったのだった。  自分ひとりで車を運転して訪れるつもりが、二那川も甲斐にひとこと礼を述べたいと言うことで、揃っての帰省である。  約束の十三時の一時間前に到着して車外に出たとき、潮香の混じる風が髪をゆったりと揺らした。全身を(くる)みこむような揺蕩のあたたかさに、四季の変わり目が現れている。   「俺は後でいい。積もる話もあるだろう、ゆっくりお話してこい」  天候に恵まれたことを感謝しつつ半時間の墓参りを済ませたあとで、二那川にそう促され、久城は彼の厚意を有難く受けることにした。  野脇が絶賛していた住職手製の達筆ポスターが貼られた玄関をくぐり、子供たちの初々しい手習いが並ぶ廊下を通って座敷に入ると、掃き出し窓の傍で庭を眺めていた濃紺のスーツ姿の男性が振り返った。 「御無沙汰しております、甲斐さん。お待たせしてしまいましたか」 「久しぶりだな、瑛人君。私も今到着したところだ」  裏理事官や警視副総監まで勤めた男は、久城のダークスーツに纏いついた裏社会の匂いを明瞭に嗅ぎ取っているであろうに、眉を顰めもせず磊落に歩み寄って来た。 「痩せたな……」 「学生の頃から、五キロ落ちました」 「そうだろう」  左肩に置かれた掌から、ジャケット越しに労わりが感じられる。  記憶にある甲斐は黒髪の豊かな、京人形にも似た涼やかな面立ちの男性だったが、今では髪に白い物もかなり混じり、年齢相応の老いも刻まれている。しかしその手の優しさは、幼いころに肩車をしてもらったときと変わらぬものだった。  篤実な表情と声音にも彼の経歴ならではの軽侮は微塵もなく、ただ亡き父の親友として、親友の息子に会いに来たのだということが判る。  彼に促され、座敷に用意された座布団の傍で向かい合って座った。持参した京都老舗の菓子を渡すと、甲斐の方も関東の名品を押し出し、互いに礼を述べて受け取る。  双方とも座布団に腰を落ち着けると、久城は端座した膝に手を置き、居ずまいを正して挨拶した。 「この度は定年退官おめでとうございます。長い間お疲れ様でした」 「ありがとう。君の言う通り、長かったな……それなりに志を持って入庁したつもりだったが、見たくないもの、遭いたくないものばかりに出遭った気がする」  位人臣を極めるという表現があるが、日本の警察組織で高みに登りつめ、足下に控える数多の官憲たちを(つかさど)る権限と権力を得ながらも空疎を抱いたままであったと知れる、深い失望と徒労感が切れ長の眦の皺に刻まれていた。   見たくないもの、遭いたくないもの――その中には当然、自分たち家族のことも含まれる。  思えば己はこの人にも随分と心配を掛け、不義理ばかりを通してきてしまった。  両親も家もあのような形で喪った大学生が周囲に気を配り、礼儀を考慮して振るまえる余裕はとうてい持ち得るはずもなかったが、不義理は不義理だ。  久城は今回の再会の目的を果たすべく、座布団を降りて畳に両手を突き、深々と頭を下げた。 「長らくのご心配を、お掛けしました……私の身の回りの諸手続きもすべて貴方と、貴方が手配して下さった弁護士の先生にしていただいたにも関わらず、お礼のひとつも申し上げないまま姿を消して、このような形でお会いすることになったことをお詫びいたします」 「何を言う、私にはその程度のことしか出来なかったんだ。君に礼を言ってもらいたくてしたわけじゃない。落合先生だってそうだ。もし逆の立場であれば義明だって同じことをしてくれただろう。座に戻って、どうか頭を上げてくれ」  姿勢を正すと、甲斐は目元に切なく哀しい色を浮かべてこちらを見つめていた。  親世代の人間として子世代の者を等しく慈しみ守ろうとする、年を経た者ならではの眼差しであった。 「あんな事件を経験してしまった子供に、大人が力を貸すのは当然のことだ。私は須之内が出所したという情報を掴んでいながら、義明もその家族も助けられなかった人間だ……何も出来なかった私に、礼なんぞ言ってくれるな。むしろ恨んでもらってもいいくらいだ」  久城は首を振って否と示した。 「須之内のあの逆恨みの深さでは、たとえどんな警備を配したとしても突破されたことでしょう。それほどの狂気でした。悪鬼に取りつかれたかのような……進んで人殺しをやる人間はみな、そうしたものかもしれませんが――両親も私も、貴方を恨んだりするはずがありません。貴方なら、父の性格はよくお判りのはずです」  妬み嫉みの強い者は、破壊欲もまた強い。  裏社会であまたの落伍者に出会い、犯罪と悪行を見聞きし、横河の醜怪な嫉妬の標的代わりにされた久城の、偽りのない実感だった。世の幸せなもの、善きものをことごとく敵視し、滅ぼして行くしか術のない狂人もこの世には居るのだと。  そのことを父も甲斐も仕事柄、誰よりも承知していた。  まさかの誤算は、己の身や親友にその狂気が襲いかかったこと。  甲斐も、須之内に人生を狂わせられたひとりなのだ。  しかし父と同様に強く誇り高い彼は、敗北に屈しなかった。哀哭の涙を隠し、親友の非業の死に頽れる姿を決して見せず、あらん限りの方策を採り、残された者のためにさまざまな道を探った。 「私はもちろん、両親も貴方に感謝していると思います。あのとき、貴方は私の過去を消すことで私を護って下さったのですから」  甲斐は、茫然自失して病室のベッドから一歩も動けなかった二十二歳の瑛人に何度も言い聞かせた。  ――いいか、君はこれから久城義明とは違う人物の子として記録される。そうしなければご両親のことも、君のことも護れない。君が生きるためだ、判ってくれ―― 「君は、生きなければならなかった……私は、何としても君を生かしたかった。とにかく事件を一刻も早く風化させることで世間の耳目を逸らし、事件そのものの存在を人々の記憶から消し去り、君が過去を探られないようにすることが、残された君の心を守る最短にして最善の方法だと思ったのだ。君が野脇組の杯を貰った時も、生きるための選択であるのなら良いと考えた。止めなかったのは、それが理由だ」  「やはり、私が野脇組に入ったのも最初からご存知だったのですね。二那川が話していました、“今”の私の住民票の除籍記録も一部が削除されていたと」 「ふたつも三つも前の記録なぞ、生活に必要はないだろう?」  甲斐がようやく、唇の端にあるかなきかの弧を刷いた。  彼が率いた組織の空気感をまざまざと知らしめる剣呑な笑みであったが、十四年前だけでなくそれからもずっと、経歴を遮断して陰ながら支えてくれていたその恩情もまた、久城の心に沁みた。 「指輪を、二那川氏から受け取ったか……良かった。嵌めているとは思わなかったが」 「少し緩いんですが、抜け落ちるほどではないので」  膝に置いた右手の薬指に注がれる注視を久城も追い、睫毛を伏せる。
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