最終章

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 受け取ってしばらくは眺めるのが限界だったが、今日、やっと父の指輪に指を通す気になれた。母のものと合わせてひとつの指輪にリメイクするか、あるいはふたつとも鎖に通してネックレスにするか。決めきれてはいないものの、なるべく常時手元に置ける形にしたいと考えていた。 「その指輪を君に返せたことで、ようやく一区切りついた。肩の荷が下りた気がするよ」  甲斐はゆっくりと立ち上がり、掃き出し窓まで歩いて振り返ると、声低くそう言った。  くぐもる響きで久城は察した。彼の胸中にはいま、はるけき青春時代を分かち合った父との輝かしい情景や追憶が去来しているのだと。  自分も座を立ち、隣に並んで答えた。 「長い間、保管して下さっていたと伺いました」 「義明たちの、唯一の形見といっていいからね。いつか君に渡せる日が来ると信じていた」  唯一の形見。  そう、すべては焔に燃えて消えた。家も、両親の家財も、そして、包丁に残された指紋も…… 「お尋ねしたいことが、あります」 「なんだね」 「須之内を、誰が死なせたのか……警察では、判明していないままなんですよね」  甲斐の右手が、久城に向かって軽く上がった。続く言葉を制するように。  「その通りだ。あの男を誰が殺めたのか、誰もはっきりとは知らない。ただ、私は君を疑ったことは一度もない」 「甲斐さん――」 「言わなくていい。私も知りたいとは思わない。あの世に行ったとき、知る機会もあるだろう」  しばらく庭の樹木を眺めやり、口を噤んでいた甲斐だったが、やがて重々しく久城を振り返った。 「ひとつ、伝えておく。遺体の身元特定には法歯鑑定とDNA鑑定が行われた。京子さんは女性だから骨格ですぐ割り出されたが、須之内は自宅にあった遺留品を、義明は警察病院に残されていた血液を使って比較鑑定したんだ。そのデータはまだ捜査資料の中に保管されている」  久城は穏やかに、けれど決然と首を振った。 「私は久城義明の子です。父にたくさんの愛情と薫陶を受けて育った人間です……両親も、貴方も、野脇も、二那川も、私は義明の子だと断言してくれた。それで、充分です」 「瑛人君……」  甲斐はしばし言葉を失うと潤んだ声で呟き、感極まったように久城をかたく抱き寄せた。その震える力には亡き親友の思いを代弁しようとする、あらゆる哀憐の情が籠っていた。 「そうだ。私は君たち三人をずっと間近に見てきた。義明は君が生まれてからは、会うたびにその話ばかりだった……君が立った、君が話した、君が入学したと、嬉しそうにそればかりを……あいつは、誰よりも君と京子さんを愛していた。誰よりも」  判っている。父がどんなに自分と母を愛してくれていたかを。  須之内が介入し、覆い隠し、奪おうとしたその(いしずえ)を自分は焔の中に一度見失い、心を裂いた。けれど両親が手に手を携え、深く純粋な愛情で築いたがゆえに、いかな悪辣な意図をもってしても破壊することは能わず、二那川たちの力を借りてこうして蘇ったのだ。  久城の閉じた眦からも静かに涙があふれ、頬を伝った。  ――父さん、母さん。  叶うならば夢ではなく、もう一度会いたい。会ってたくさんの話をしたい。  両親が自分を儲けた二十代は疾うに過ぎた。明日の命も知れない稼業ではあろうと、記憶の中のふたりを追い越し、自分だけが老いてゆく日がすぐに訪れるのだろう。切なくとも、きっとその時は寂しくはないはずだ。一生の刻を共にすると誓ってくれたひとが、隣にいるから。   二人はしばらく抱き合っていたが、先に甲斐が身体を離し、久城の両腕に掌を添えた。  「今日、君に会えて本当に良かった……もう私は就職はしない、ただの一市民だ。いつでも会いに来てくれて構わない」 「ありがとうございます。私もお会いできて良かったと思っています」  廊下を二人で通り抜け、靴を履いた。  甲斐はまだ住職と話があるとのことで、鞄は玄関に置いたまま身軽に外に出る。  本格的な春の訪れを予感させる眩しい陽光が蒼天に広がり、眼下に見渡すかぎりの海原を煌々と輝かせていた。さわやかな梅の香りがどこからともなく漂ってくる。  あと二週間もすれば桜も始まるな、と甲斐はひとりごちてから続けた。 「これから、君はどうするんだ。組を、抜ける気はないのか」  久城は一瞬虚空を仰ぎ、それからほほえんだ。 「私の道はもう定まりました。変えるつもりはありません」 「二那川氏に、付いて行くと云うのか」 「はい」 「そうか……」  甲斐は集会場の玄関から離れた場所に停車している黒塗りのレクサスと、その傍に佇んで渋谷らと談笑している二那川に焦点を移した。 「生業(なりわい)はどうあれ、傑物であることに変わりはない。二代目はさすが、見る目が確かでいらっしゃる」  ごくさり気ない、あえて感情の抑揚を排した述懐だったが、上は内外の政権トップから下は公安にマークされる犯罪者まで、幅広い階層の数え切れぬ人々の生きざまに接してきた人物である。その甲斐が野脇と二那川に一目置いていると窺える発言に、久城は驚いた。  考えてみれば二那川に両親の形見を託したのは、信頼に足る男と初会で見定めていたということ。甲斐が人脈をフルに活用して今回の件で動いたのは、どうやら重要なHDDを提供された見返りだけではなく、野脇と二那川の言動が影響しているようだと感じた。 「なぜ、我々にここまで協力下さったのですか。あの時は内閣情報官でいらっしゃったのでしょう。権限を超えたことも、なさったのではないのですか」  この問いに甲斐は癒えきれぬ傷を滲ませる、ほろ苦い自嘲をかすかに浮かべた。  砂利を踏みしめ、風に頬を晒すように海原を遠く見遣る。 「二那川氏が言っていた。亡霊への復讐だと。私も、同じ気持ちだったのだ」 「亡霊……?」 「横河は、この世に舞い戻った須之内の亡霊でもあった。義明たちの忘れ形見である君をなおも苦しめ、さながら地獄に一緒に引きずりこもうとする悪霊だった――その憎嫉を断ち、君と我々警察が抱え続けた長年の無念を晴らすためならば、この程度のことは何でもない。警察の仲間意識とは、そういうものだ」  断言して、続けた。 「皮肉なものだな。奇縁と云うべきか……事件を生きのびた君が組に入り、君の兄分が亡霊に(とど)めを刺すことになるとは。義明へのいい土産話が出来た」
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