最終章

3/3
前へ
/66ページ
次へ
 彼は絶大な地位を手に入れながら――手に入れて興味を失ったのかもしれないが――長命や財産というものにまったく執着していない。就職はしないという説明は聞いたものの、どこかの役職の予定はと久城は何気なく訊ねた。  甲斐ほどの学歴職歴であれば引く手あまたで、政治家への誘いもあろうに、今こうして一般人となったままであるのが不思議で仕方がなかった。  しかし、甲斐は否と言下に答えた。 「なぜ、義明と京子さんをあのような形で喪って見送らなければならなかったのか。私の生涯の終わりまで答えが見つかることはない……肩書きも義明が亡くなったから私が代わっただけで、非才の身には過ぎたものだった。機密保持や身辺警護の観点では、しばらくは重職に就いたほうが良いのだが、組織も、汚濁も理不尽も、もうたくさんだ。懲り懲りなのだよ」  激務を定年まで勤めぬいた甲斐も、トップであるがゆえの永い孤独を嫌というほど味わったのだろう。隣に並んで、共に支え合いながら歩んで行くはずだった親友を喪ってから、ずっと。  彼ほどに人生経験と教養豊かな人物でさえ、世の理不尽への答えが判らないという。久城は、なおさら自分に答えは見つけられない気がした。  それでも生きている限り、前に進まなければならない。 「行くといい。子の出立を見届けるのが親の役目だ。義明たちに代わって、送らせてくれ――君はまだ若い、この先は長いものになる。身体に、くれぐれも気を付けるんだ」 「……はい。甲斐さんこそ」 「定年の年齢なんだから、立派に年寄りだ。年寄りのことなど若い者が気にしなくていい」  二人の話がひと段落したと察した二那川が、渋谷に何事か指示すると、こちらに向かって歩いてきた。  甲斐も微動だにせず、出迎えようと佇んでいる。  それまでの温和で情深い挙措から一転、二那川を真正面から射抜く鷹の如き炯眼を前にして久城は瞠目した。須之内の半狂乱に近い罵詈暴言を毅然と喝破した父のそれと重なる気魄――知人だからと甘え心を残していた油断を痛感し、彼らが在った任の真価を改めて思い知った。その甲斐に悠揚迫らぬ足取りで距離を詰める二那川の胆力にも。  二那川は甲斐の前でぴたりと立ち止まり、再会の挨拶を交わすと謝意を述べた。 「情報授受の一件だけでなく、その後も多大なご協力を賜り感謝します。ありがとうございました」 「もう私は退官した一般人だ。以前のことはお互いに触れないようにしよう」  そして甲斐は右手を差し出した。  彼が官吏である時にはあえて避けていたのだろう握手を、二那川も受けた。  固く握り合った後で、甲斐はさらに二那川の右腕に左手を添え、じっと目を見詰めた。 「瑛人君を、頼む」 「必ず」 「――ありがとう」  二那川の短くも力強い答えに、甲斐の眦がふっと緩み、安堵の色を浮かべる。 「では、失礼します」 「ああ。気を付けて」  徐行して回りこんだレクサスが横付けし、若衆がドアを開けて出迎えると、甲斐からの手土産が入った紙袋を丁重に引き受けた。  後部座席のうち、運転席後ろの席に久城が二那川を乗せ、自分も隣に乗りこんだ。  ウィンドウを開いて目礼すると、甲斐が右手を軽く上げる。  それを合図に、車は発進した。徐々に遠ざかり小さくなる甲斐の姿を、久城は名残惜しくリアガラスを振り返って追わずにはいられなかった。次はいつ会えるともしれない、父代わりとも云うべき懐かしい人物との別れは胸を裂かれる思いだった。亡き両親との幸福の日々。光に満ちたその記憶を共有できるのは、もう彼しかいないのに。 「またいつか、お会いできるだろう。退官なさって身軽になられただろうしな」 「……そうですね」  ついに視界に捉えられなくなり、諦めて座席に背を預けた久城に、窓の外を眺めながら二那川が話しかける。  シートの中央にあるアームレストに右手を何気なく乗せたとき、その上から二那川が左の掌を重ねてきた。指輪が手元に戻った時にそうしてくれたように。  久城は右隣を向いたが、彼は窓から視線を外そうとしない。  言いたいことはその仕草で、その温もりで、はっきりと心の奥底まで届いていた。  ――俺が傍にいる。大丈夫だ。  そう、彼の言う通りだ。自分の傍にはこれからの長い刻を一緒に紡ぐひとがいる。過去はそのままに抱きつつ、答えを探すために頭を上げ、唯一無二のそのひとを支えるべく未来を見据えて進まなければ。  ――もう俺は、大丈夫です。貴方がいるから。  想いを籠めて、そっと握り返した。  こちらを振り向いた二那川と、まなざしが重なる。出会う者の心を奪わずにはいられない夜闇を湛えた、その端整な眸と。  いつしか、ほほえみが零れた。彼の唇にも、鏡で映したように同じ微笑が綻ぶ。  指も視線も絡んだあと、自然に解けたが、離れることの不安も恐怖もなかった。心が繋がっている確信、それこそが何よりも強い絆となることを、今の久城は知っている。だから、もう怯える必要はないのだ。  大阪の本部事務所への直帰を命じる二那川の声を耳にしつつ、久城は一度瞼を閉じ、開いた。  これからまた、新たな日々が始まろうとしている。  勢力絵図を一新させた二那川の補佐としての、一層の細心と策謀が求められる日々が。  心を切り換え、前を向いた久城の鋭利な表情は、覚悟を決めた敏腕の侠客のものだった。 ―Fin―
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

283人が本棚に入れています
本棚に追加