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久城は温かいシャワーを頭から被った。三度、全身をボディーソープで隅々まで洗った。
胃が痙攣してえづくものの、胃液も出ない。涙も出ない。
頬を壁の鏡で確かめると少し赤くなっているが、腫れてはいなかった。かつてはその腕っぷしで鳴らした男でも、老いと病には勝てないのが幸いした。性具のせいで腰は疼痛が残ったままで、膏薬と鎮痛剤の両方が要る。
鏡に右手を突いた久城は、湯でずぶ濡れの己を凝視した。
ストレートの髪を掻きあげた額。上がり気味の眉。その下にある、母譲りの睫毛と二重の瞳。高い鼻筋の横を流れた水滴を弾くくちびる。昔から見飽きるほど見てきた自分の顔だった。
けれどハンドボールで鍛えた学生時代から何キロも落ちている上、さらにここ数日の苦行で全体的な窶れと顔色の悪さが進んでいた。死神のようで我ながら見苦しいと嫌になるほどに。
横河は界隈のSMクラブにも出入りしている。行き場のない性欲のはけ口を探して、さらに残酷な嗜虐行為にエスカレートすることは目に見えていた。そうなるとこの躯はどうなるのか。痩せて傷だらけになれば、もう二那川が魅力を覚えることのない代物になるのではないか。
――馬鹿だな。
久城は右手を握りしめた。
たとえ窶れず傷が入らなかったとしても、このヤサで自分が横河に何をされているかを彼は充分に悟っている。ここまで穢された身を、好んで抱くはずもない。もともと異性愛者で、美女には困らない男なのだから。
どんなに身体を蹂躙されようとも久城の頭は二那川のことに占められ、横河には追随しない。それほどに二那川を求めても、彼にとっては己は忠実な右腕であり、気まぐれな情事の相手役というだけ。それなのに見捨てないでほしい、助けてほしいなどと、高望みが過ぎる。判りすぎるほど判っているのに、心臓を刺し抜かれる思いがする。身体の疼痛などどうでも良くなるほどに胸が激しく痛む。
『久城』
電話越しでもいい、せめて名を呼んでくれるあの声が聞きたかった。
そうすれば、生きる力を少しは取り戻せるのに。
躯の底まで沁みとおり、心をゆったりと攫っては絡みつき、離さないバリトンの声。
ベッドの中ではさらに深く、低く響いて、熱い腕と共にこの身を欲情のうねりへと引き摺りこむ声を。
「っ………」
無理だ。
横河は自分の目的を果たし終えるまで、絶対に二那川とコンタクトを取らせないだろう。
詮ない望みを久城は嘲笑い、拳に額を乗せてうつむいた。
手足に泥が纏わりついたように重い。自分が自分でないかのようだ。一歩動いただけで心と身体がばらばらになって床に千切れ落ちそうな気がする。しかし、バスルームから出なければならない。横河の子分が待っている。
思い切るためにシャワーを止めた久城は棚に用意されたバスタオルを取り、ぎこちなく肌を拭い始めた。
※ ※ ※
このマンションで久城の世話を担当しているのは田中という若衆だった。
横河の身辺の用を務める人員の中でもっとも彼に可愛がられていて、二十代後半くらいの、修行中のレスラーと見まがうようないかつい体格の青年である。
短い金髪をツーブロックに刈りこみ、いつもTシャツとジーンズのラフな格好で、醸し出す雰囲気も屈強だが話せば人懐こい笑顔がよく出る、性格は悪くない人間だ。実は看護師の資格があり、男性看護師が重宝される精神病院に常勤したあとは介護施設にも勤めたという。外見に似合わないまめまめしい働きぶりを見れば、さもありなんである。
組入りしたのは親が事業の借金で首が回らなくなり、蒸発した肩代わりだと久城に話した。
気のいい大型犬のような、憎めない彼がなぜと疑問だったが、それで納得できた。生活習慣病と不眠に悩まされている横河の体調管理を前の職業ゆえに任され、もはや居なくてはならない存在と化している以上、堅気には戻らせてもらえまいと気の毒にもなったが、これも人生なのだろう。
「お疲れ様です」
田中は用意されたセーターとチノパンツを着て一室に入った久城に一礼し、デスクに三台あるうちのノートパソコンを見せた。殺風景な八畳ほどの部屋にはコードが引きまわされ、使いこまれたプリンタや椅子が雑然と積まれている。ゴミ箱にはコンビニ弁当の空容器が見え隠れし、空いたペットボトルも突っ込まれていた。時々は若手のシノギ用に使われている場所のようだ。
「こちらです。おやっさんが久城さんにこれをお見せして、気になるところがあれば抜粋しろと言ってました」
「そうか……」
身体の痛みに耐えながらデスクチェアに座ると、PCを立ち上げた。画面の端の日時に目を走らせる。記憶で数えていた通りここに連れてこられて五日目、夜の十九時を回っていた。
田中が指差したのは、帳簿ソフトだった。
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