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第一章
冬の季節でありながら暖かな気温に浸された夜は、人間の行動もいくぶん活発になる。
その夜の二那川は会合でクラブを数件回っており、プライベートで『秋』を訪れた頃にはいくぶんほろ酔い加減になっていた。久城は組長に呼ばれて不在だったが、すぐに追いついてくる予定だった。
「貴方がジンをお飲みになるのは珍しいですね」
肩までの長髪をオールバックに括った壮年のバーテンがグラスを差し出しながら、カウンターの向こうから微笑む。
経営だけでなく内装から人選まで全てを任せられるこの正岡という男は、会話のタイミングにもそつがない。グラスを整える繊細な指先を見るともなく見ながら、壁際に背を預けた二那川も唇を緩めた。
「若い頃はジンの方が好きだった。無茶飲みできなくなってからは、めったにやらなくなったがな」
「シンプルへの回帰というやつですか」
「たまには、嘘をつかない味がいい」
心身の疲労が溜まると、二那川は明快な酒へと流れる。まるで躯がそれ以上の複雑さを拒み、精神を洗いたがっているかのように。地位が上がれば上がるほどその傾向が強まっていることを、本人は自覚していた。
ただ、今はそれだけではない。苛立ちを抑えるために、あえて普段は選ばないものを選んで飲んでいる。心の奥を覗きこむまでもなく、その原因は判っている。
――久城が、現れない。
彼を最後に抱いてから二週間は経とうか。中島組があちこちで繰り返す小競り合いの収拾に、ふたりとも忙しく立ち回っていた。すれ違いが続いて、一日中顔を見ない日もあった。
そんな中で久しぶりの夜を久城と過ごすつもりだったのだが、いつまで経っても到着しない。『親父さんの用事が何なのかは知らないが、大したものではないらしいので、すぐ終わると思う』と本人は言っていたのに、どういうことなのか。
ダークブラウンで統一されたシックな店内を行き交う、女たちの華やかな色彩。時折視野を横切るそのあでやかさも、気散じにはならなかった。
二那川がこの店に来るときはいつもひとりか、久城とでなければ飲まないと知っている正岡は、女を侍らせない。その気遣いが今ほど有難いことはなかった。ただでさえ最近のやっかいな揉めごとで気が立っているというのに、このうえ久城までもが側にいないと来たら、女にぶっきらぼうな態度しか返せないところだ。
グラスを唇に運ぼうとした時、フロア担当のボーイがあわてて正岡の横に寄って耳打ちする。細作りの眉が顰められるのを、二那川は素早く見てとった。ボーイが困ったように店長と二那川を代わる代わる見つめる間に、正岡が口を切った。
「横河の親父さんが、おいでになったそうです。貴方に会いにいらしたとか」
「叔父貴が?」
意外な来客に、二那川も声を上げた。
「いかがいたしましょうか」
「どうするもこうするも、入口に来てるんだろうが」
ボーイが然りと目線で返すと同時に、二那川はグラスを置いた。
「入れない訳にもいかんだろう。奥に案内しろ」
「は、はい」
ボーイは口ごもりながら拝命し、入口に踵を返した。
「あの方がいらっしゃるとは……本当に珍しいことですね」
「まだ太陽が西から昇った方が信じられる」
表情を隠しても、声音に不愉快がにじむ。二那川はスツールから下り、女もボーイも近寄らせるなと命じた。
「叔父貴は趣味が悪いからな、へたな悪戯をされてはかなわん」
うなずいた正岡が、自ら酒の用意を始めた。
お互い会いたくもない間柄であるのに、ここまでわざわざ来たという不可解な行動。その目的が、他者同伴の席で披露できるような代物であろうはずがない。二那川は一番奥のボックス席に案内された訪問者の前に、冷ややかな貌で歩いて行った。
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