1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

自分が子供を産めない体だと思った時、私は十四歳だった。 毎週土曜日、午前中で授業が終わった後、部活をやってそのまま学校からピアノ教室へ通っていた。ただ、その日は楽譜を忘れてきてしまったので、一度家に帰った。家の近所では新築の工事が朝から夕方まで続いていて、何かをトンカチで打ち付けている音や、ドリルの音が鳴り響いていた。私が開いたドアの音はそれらにかき消された。ピアノが置いてある居間へ向かいながら、徐々に聞き取れる音量になってきた母親と祖母の会話を聞いて、私は自分が子供を産めない体なのだと思った。勝手にそう思った。母と祖母の会話の断片をつなぎ合わせて。楽譜を取りに行こうと居間へ入る前、いつもは言わない「ただいま」を投げかけると、自然な「おかえり」が返ってきた。なのできっと二人の会話は聞き間違いだなと思いながら、安心して悲劇のヒロインの空想をスタートすることができた。 私は空想をするのが大好きだった。つまらない田舎の中学校の窓際の席で、遠くを走る電車を眺めていた。線路はどこまでも続いていて、あの電車は東京まで行くのだと思った。それをきっかけにいくらでも私の想像力の引き出しが開いた。 母と祖母が話していた(ことを断片的につなげた)私の体のことが、心のどこかでは自分の思い込みにすぎないという保険をかけつつも、思春期に在りがちな、自分を少し特別な存在になったような気持ちにさせた。きっと私はとても自己顕示欲が強い女子だったのだと思う。ピアノだって人前で演奏して感心される曲しか弾きたくなかった。バッハやツェルニーなんて弾いていられない。努力はすべてすぐに報われるべきだと思っていたので、ショパンの有名な曲を上辺だけ仕上げて、音楽室でクラスメイトに披露しては悦に入るといった調子だった。ピアノの先生はとっくに正当なピアノを教えることを諦めていたし、私もピアノで生計を立てるつもりはもちろんなかったので、いつもひどい演奏をしていた。私はいつも結果ばかりを焦って求めていたのだ。 家では祖母、母、私の三人で生活していた。父はいなかった。日本のどこかにはいたのだろうけど私たちの日常には存在しなかった。同居している祖母は父の母で、祖父は私が生まれる十年前に肺がんで亡くなっていた。母方も私が生まれたときにはすでに祖父母がいなかった。私の世界は祖母、母、私という点をつなぐ、か細い線を中心に築かれていて、その線が私の子につながっていきさえすれば、それで十分私に課せられた期待に応えられると思っていた。祖母と母は、男は頼りなく、あてにならない、という自分たちの人生で得た経験と教訓を丁寧に日常生活に織り込んで私を成長させてくれたので、男に頼らずに生きていかなければならないと思うようになったが、それにもかかわらず祖母はたまに「日奈ちゃんはいい旦那さんにもらわれてほしい」なんてことを言ったりする。それは主に母に対して、自分の息子の身勝手さを詫びる時にセットになって出てくる言葉だ。とにかく彼女たちは、自分達が成しえなかったことを私に期待していた。それは人並みの人生、女の幸せ、というものだ。 自転車を止めて鍵をかけると、クリーニング屋の扉を開ける。その瞬間むわんとした溶剤の匂いが鼻に抜ける。いつ、どんな気温で嗅いでも生ぬるさを感じる不思議な匂い。誰もいない店先で「こんにちは」と声をかけながら靴を下駄箱にいれて、店の奥へ向かう。途中にある居間を横目で確認すると、肌着に股引姿の、先生のお父さんがこたつに入って新聞を読んでいたので、挨拶をする。ハンガーに大量にかけられたビニールカバー入りの洋服の間をすり抜けてガラス戸を開けると、そこがピアノ教室だ。八畳ほどの広さの部屋はそこだけ洋風にリフォームされていて、グランドピアノが鎮座している。まだ前の生徒のレッスン中だったので、四人掛けのダイニングテーブルに座って宿題を開いた。目の前で先生のお子さんがクレヨンで絵を描いていた。ちらちらとこちらを見てくるので、 「何描きよると?」 と尋ねると、 「どくたー」 と返ってきた。画用紙の上では人間のようなものが、額に丸い何かをつけていて、白い服の肩から紐をぶら下げていた。はて、どくたーとは何だったろう、と五歳の子がいいそうな単語を思い浮かべたが、絵を眺めているうちにそれが医者のことだと気づいた。 「どくたーってお医者さんのこと?」 「そう」 「そっか、お医者さん好きと?」 「どくたーになりたいの」 それを聞いて、幼稚園に通っている女児とは思えないマセた絵だと思った。おそらく頭もいいのだろう。その後も絵についてお子さんと会話をしていたら、前の子のレッスンが終わった。 「日奈子ちゃん待たせてごめんね」 玄関まで生徒を見送ってきた先生が戻ってきて言う。先生はいつも綺麗な服を着ていて、持っているバッグもたぶん、ブランド物だ。 「お姉ちゃんとお絵かきできてよかったね~。それにしても日奈子ちゃん子供あやすの上手なのね、知らなかった」 「そうですか? 私一人っ子けん、小さな子と話すとついかわいくて構っちゃうんですよね」  楽譜を譜面台に広げながらそういう会話をしたが、実は子供が苦手だった。どういうテンションで接すればいいかわからないし、会話の流れを無視して好きなように振る舞うし、この時も年長者としてわがままに付き合わなければならないのが馬鹿らしいと思っていた。ただ、私はその年長者としての義務を果たすことが、自分の評価を上げることに繋がると思っていたので、この子の相手をしていただけだった。きっと私は子供から大人になる最中で、自分から奪い取られていく〝子供〟という立場に嫉妬していたのだと思う。生まれてからずっと当然のように子供として扱われてきたのに、時期が来ると大人になるよう促される。その身勝手な要求に苛立ちを覚えては、小学校の頃見学に行った養豚場を思い出した。ただ一つの目的のためだけに産まれ育つ命。その頃から人間と動物の違いについてよく考えるようになった。  レッスンが終わると、先生がクリーニング屋の店先まで見送りに来てくれる。小さなクリーニング屋の前には立派な高級車が停まっていて、その持ち主は先生だ。先生はいくつかのピアノ教室を経営していて、この実家はいわば本店のようなところだった。旦那さんも経営者で、一人娘には英語の家庭教師もついている。レッスンが終わればこの田舎町を高級車で去って、高速道路で一時間の街へと帰る。私にとって先生は成功した女のお手本のような人だった。  ピアノ教室から家へ帰る途中、空想をしていた。私はこの田舎町を出て、東京にいる。そしてなんらかの成功をしていることにした。でも女優やモデルはだめだ、私の顔やスタイルではまず成功できない。そこで、小説家はどうだろう、と思った。私は空想をするのが好きだし小説がヒットした作家という設定にしよう。そう考えるとあとはスルスルと空想が浮かび上がってきて、心地いい何かが、脳内をガスのように満たした。有名になった後、この田舎町に帰ってきた私は、町役場の車寄せでタクシーを降りる。町長や議員、地元の名士がズラリと並んでお出迎えしている。表敬訪問を終えた後は、中学校で凱旋講演をする。後輩たちの前に立って成功の秘訣を語る私を、皆羨望のまなざしで見ている。ふと体育館の端へ眼をやると、昔私にビンタした先生が教頭先生になっていて、講演後、校長室でお茶を飲んでいる間ずっと昔話をしてくる。  空想しながら夕暮れの田舎町、菜の花が咲く田んぼのあぜ道を走る。黄色い道をただまっすぐに走っていれば家まで着くので、私の足は自動運転のようにペダルをこぎ、視線は障害物を感知するためだけに開いていた。それ以外の私の脳の機能はすべて、空想を紡ぎだすことに使われていた。ここまでくるとこれは私の空想ではなく、脳が私に見せる物語のようだった。予想外の展開が起きることもしばしばあり、この時は、講演を終えて体育館の入り口へ向かうと、そこに父親が立っていた。有名になったので金をせびりにきたのだ。 私は自動運転を停止して、視線を落としため息をついた。こういう展開は望んでいない。とたんに周囲の音が耳に入ってくる。田んぼのあちこちからカエルの鳴き声が聞こえて、さらにその先の川のせせらぎ、藪の中の虫の音。町内放送が午後五時を告げる放送、童謡の夕焼け小焼けが鳴り響いている。今はちょうど地区の境目にいるので、離れた場所に設置されたスピーカーからそれぞれ流れる、少しずれた音が輪唱のようだ。このあたりに住んでいる人は毎日気持ち悪いだろうなと思った。 暗くなってきたので、自転車のライトを点灯する部品を足で蹴って、また、ペダルをこぎ始めた。私はたまに考える。私の中にはもう一人の私がいるんじゃないかと。いつも私の空想がいいところにくると、水を差すような出来事が起こるからだ。私が疑っているのは姉の存在だ。私が生まれてくる前、母は流産している。その魂が母の子宮にとどまり続けていて、私が生まれる時に一緒についてきたのでは、ということだ。だったらお姉ちゃん、邪魔しないで一緒に空想楽しんでくれないかな、といつも思った。 家に着くと車庫の脇に自転車を止めて、家に入る。隣の犬はいつも私に吠えてくるが、あれは警戒しているのか、人を見て喜んでいるのかどっちなのだろう。警戒しているのだとしたら相当馬鹿な犬だと思う。お隣がここに引っ越してきて三年も経つというのに。それとも、見えない何かが見えて居たりするのだろうか。 夕食はいつも私と祖母の二人で食べる。母は看護師で一緒の時もあればそうではないこともあり、今日は夜勤に行ったようだ。必然的に祖母と一緒の時間は多い。 「そういえば日奈ちゃん、ピアノの発表会は? 今年はいつ?」 「今年もクリスマスあたりにやるって言いよったよ、先生」 去年は十二月にクリスマスをテーマにして発表会が開催されたけれど、正直私はクリスマスじゃない方がよかった。クリスマスだと選曲が制限されるし、ガンガン激しい曲なんかはやんわりと先生に却下されてしまう。 「そう、じゃあまたおばあちゃんの友達にも教えとくけん、日にち決まったら教えてね」 「うん、わかった」 田舎のピアノ教室の発表会なんて基本身内しか観に来ない。客席には生徒の学校の友達や親戚が居るくらいで、たまに会場の近所の物好きな人が混じっていたりする。まあ、無料で生演奏が聴けるという意味ではいいかもしれない。私はへたくそだけど、音大に行ったりする生徒もいるし、高校生なんかだとそれなりに名の知れた難曲を弾いたりするので、おばあちゃんの友達はそれを楽しみに毎年来るのだ。演奏が終わると身内や友達がステージまで花束を持って来るのが慣例だけど、私はそれがヤラセっぽくて、というかヤラセなのだけど、とにかく嫌だった。ある時、知らない生徒の親が、娘の同級生っぽい子たちに「このあとおいしいパフェ食べに連れて行くからね」と言いながら小ぶりの花束を一人ひとりに渡しているのを見て憐みを感じた。そこまでするのは何でなんだろう? そんなことされても子供はみじめな気持ちにならないのかな、親ってのはよくわからないことするんだなと思った。そう言いつつ私も自分の親や祖母から花をもらうのが恥ずかしくて、母親が買った花をおばあちゃんの友達から渡してもらっていた。他人から見たらどうせ身内に見えるんだろうけど、それでも身内にもらうのはどこかかっこ悪いという気持ちがあった。  夕食を終えると祖母と皿洗いをするのが日課だった。手が荒れやすい祖母の代わりに私が皿を洗い、祖母は濡れた食器をふきんで拭く。その手は細い。身長も私より小さいし、一緒にいると私がしっかりしなくては、という気持ちになる。この家には祖母、母、私しかいなかった。  食卓では私の体の話は出なかった。ベッドの中で、やはり聞き間違いだったのかと安心する気持ちを噛みしめてから、目をつぶる。私が子供を産めない体だったら、今日のようにピアノの先生の子供に優しく接することができるだろうか。できないような気がした。そもそも私は子供が欲しいのか。欲しくなければできなくたって別にいいんじゃないかと思った。そんなことを考えているうちに眠りについた。その時私は十四歳だった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!