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あなたはハナコ・トバ。今日で24歳の誕生日を迎えるOLだ。といっても、リモートワークが当たり前になった今日では、オフィスレディではなく、HL、ハウスレディと呼んだほうが適切かもしれない。
あなたはほとんど全ての仕事をベッドの上で寝転びながらするため、半ば自虐的にBLと呼んでいる。とはいえ、相変わらず世間では古い言葉が、その意味するところを変えながらも便宜上生き残ってはいるので、OLという言葉も、普段あなたが利用している辞書にはちゃんと載っているし、BLという言葉は、一般的にはあなたが意図するのとは違う意味で通用している。
だから一人一人に便利な識別番号が与えられている世の中であっても、名前というものはまだ存在している。公的なフォームでは、あなたは自分のことを87510810816と称する。
しかしカジュアルな相手とやり取りをするときには、やはりそれだとかえって識別しにくいということもあって、ハナコ・トバで通っているし、親しい相手はあなたのことをハナコとか、ハナコさん、とか呼ぶ。
ほとんど意味をなさないものになってしまってはいるが、花子鳥羽という漢字の表記も残っている。昔風にいえば、鳥羽花子ということになる。ともかく、それがあなただ。
5月17日の午前零時、あなたは24回目の誕生日を迎えた。正確にいえば、24年前の5月17日の午前5時55分にあなたは生まれたので、まだ23歳なわけだが、何事もあまりに正確にしすぎるとかえって不都合である。
文明がどれだけ進歩しても、人間というのはファジーでとらえどころのない一面を持っているのだ。だからあなたは今でも週に2回はマンションの下のスポーツジムに通って、鉄のフレームに囲まれて(結局のところ、アルミやカーボンよりも鉄のほうがいいのだ)規則正しく筋肉に刺激を与えているし、プロテインはパウダーから摂取せずに、よく噛んで鶏肉を食べている。
義務教育のテキストが全て数字と記号で書かれているということもなく、あなたはこんなもの社会に出たら何の役に立つのだろう、という疑問を抱きながらも、当用漢字の9割以上を記憶した。
卒業試験の内容をあなたはまだ覚えている。それは、源氏物語全54帖の中で、「ろうたし」という単語が何回使われているか、という問題だった。この時代にかような問題を出題するなどかたはらいたし、と答えたくなる衝動を抑えながら、あなたは正確な数字を答えたつもりだったが、大きくはずした。
要するに、多少の矛盾を孕みながらも社会が効率を究める方向で進化しているのに対して、あなたは本質的に秋空のように移り変わりやすく、円周率のように割り切れない存在なのだ。
だから深夜零時にもかかわらず、こうしてベッドの上であぐらをかきながら、眠い目をこすってボーイフレンドのマルコからのテキストメッセージを待っているのである。
普通に考えれば、しっかりと眠って目が覚めてからでもいいのだが(その方が5時55分を過ぎている)、あなたはどうしても誕生日の零時の瞬間にこだわったのだ。
(誕生日になる瞬間を、愛するマルコの腕の中で迎えたい)
と、あなたは思っていた。
しかし、当のマルコからテキストメッセージが届いたのは、零時を15秒ほど過ぎてからだった。
「誕生日おめでとう。この一年があなたにとって幸福なものでありますように。愛を込めて。#31415926535」
(ひどい)
とあなたは思った。
マルコはいつもデートに遅れてくる。物理的に肉体を移動させる必要はないのに、だ。しかし、15秒遅れというのは、彼がメッセージ送信のタイマー予約をせずに、今この瞬間ちゃんと起きているということも意味する。
(それにしたって、ひどすぎるわ。零時を回ってから送信しても、零時1秒になる前には届くはずよ。それに、なによ。31415926535だなんて。恋人とデートをするのにソーシャルナンバーを名乗るわけ?)
あなたは文句を言ってやろうかと思ったが、それより先にマルコのテキストメッセージが届いた。
「まずは腕枕のプレゼント。
CH2(NH2)COOH
CH3CH(NH2)COOH
H2NCOCH2CH(NH2)COOH
HSCH2CH(NH2)COOH・・・」
あなたの脳内に、マルコのたくましい体のイメージが再生された。それは想像していた以上にあなたを満足させるものだった。筋肉質の太い腕を枕にして、あなたは身を横たえる。自分よりも強い生き物に抱かれながら眠る安心感は、何物にも代えがたい。
あなたの脳細胞は、マルコの脇から発生する雄の匂いを識別する。大昔から脈々
と受け継がれてきた、狩猟と闘争の香りは、人類が情報化を極限まで推し進めた現代にあっても、変わらず女を虜にする。
「あなた、シェイプしたのね。たくましい男性が好きって言ったの、覚えててくれたのかしら。これで朝までぐっすり眠れるわ。でもカリウムが足りてないようね。サプリメントばかり飲んでいないで、ちゃんとバナナを食べなきゃダメよ。#87510810816」
ほどなくして、マルコからの追加のテキストメッセージが届く。
「体全体もいるかな?
RCOOHCH2 RCOOHCH2 RCOOHCH2
RCOOHCH2 RCOOHCH2 RCOOHCH2
#05」
新しいインフォメーションに合わせて、マルコの全体像が修正される。彼の体は、あなたが最も忌み嫌う分子構造によってコーティングされた。頭の下に感じていた硬い感触が、若干ソフトなものに変わる。
あなたは即座に返信する。キーボードを叩く必要はない。脳が電子信号を送れば、手首につけられたウェアラブル端末がオペレーションを実行する。
「腕だけ送ってきてどうするのよ!それに、太り過ぎだわ!#87」
「体重は増えてるけど、水分だよ。一晩寝て汗をかけば落ちている。今すぐ明朝のデータも送れるけど、いるかな?#05」
「いるわけないじゃない!さっきのデータもそっくりそのまま返すわよ!#87」
「返さなくていいから、その分、HとOをデリートしておいてよ。2対1の割合でね。#05」
「もう、あなたって、どうしてそんなにロマンチックじゃないの?わたしがどんなにこの日を楽しみにしていたか、わかってないのかしら。あなたってもしかして、今、世間がいうように、誕生日なんて1年に1回ずつあるんだから、わたしが平均寿命の150歳まで生きるとして、今日のこの日は150分の1の出来事だって、そうとしか思っていないんじゃないの?それが最近流行りの思想だってことはわたしも知ってるけど、でも、そうじゃないと思うのよ。わたしの24歳の誕生日は、1回限りの出来事なの。今日しかないのよ。それを愛する人の腕の中で迎えたいって思うことが、そんなにワガママなことなわけ?わたしがこの日のために、どれだけ苦労して準備してきたか、あなたわかって?!
GAVLISTDEKRFYWHPCMNQ!#87」
「ワオ!なんてセクシーなヒップなんだ!君の体は素晴らしくシェイプされているんだね。タンパク質を構成する20種類のアミノ酸がバランスよく配合されているよ。しかもFとWとHとPは、現代の栄養素が貧弱な食物には含有されないから、これは君が嫌いなプロテインパウダーを15グラムずつ3時間おきに摂食したことを示している。心配しないでよ。どうして今日の君がこんなに怒りっぽいのか、ぼくはちゃんと理解している。炭水化物の不足だ。脳に栄養がいってない。#05」
「そうじゃないのよ!あなたはわたしのことを愛してないの?#87」
「愛してるさ。君にはこれまで78種類の言語で愛してると言っている。あ、そういえば、古代エトルリア語はまだだったかな?#05」
「C言語でもD言語でも、そんなことはどっちだっていいのよ!わたしが欲しいのは、昔の恋人たちが普通にしていたような、もっとこう、フィジカルなものなのよ。#87」
「たとえば、こんなことかな?今、君のベッドの上のような。#05」
あなたは、ベッドの質感が変化するのを感じた。マルコがなんらかの操作をした結果、あなたのベッドシーツが送ってくるテクスチャ信号のパターンが変わったのだ。
「ハッピーバースデー、ハナコ。あなたを愛しています。#マルコ」
あなたは華やかな甘い香りに包まれた。情熱的な中にも、上品で優雅な雰囲気が混ざる。旬のフルーツを思わせるような、若々しくてさわやかな香りも感じる。
あなたを愛しています。
わたしは今、熱烈な恋に落ちています。
わたしはあなたにふさわしい。
あなたを深く尊敬しています。
あなたに出会えた奇跡を感謝します。
あなたに神の祝福が降り注いでいます。
純粋な愛。
君の全てが美しい。
愛を誓う。
あなたに出会えてわたしの人生は光輝いています。
おびただしいまでの花言葉が、あなたを包んだ。ベッドだけではない。あなたの部屋の壁が、床が、天井が、本棚の上のクマのぬいぐるみが、あらゆるものが発する信号が、全て花言葉に変わった。あなたは花言葉の洪水の中に浮かんでいた。
「何よ・・・、これ。#87」
「全てバラの花言葉さ。昔はね、男は好きな女のために、その歳の数だけバラを花束にして贈ったものさ。どうだい?赤やピンクや黄色のバラで、君の部屋が無尽蔵に埋め尽くされた気分は。#マルコ」
しかしあなたの答えは、ボーイフレンドが期待していたのとは違っていた。
「あなたって、たった一本のバラもわたしに贈れないの?#87510810816」
「おいおい。無茶を言わないでくれよ。今時、本物の花を手に入れるには、樹海かジャングルにでも行かなきゃならないぜ。花なんて、言ってみれば植物の生殖機能の一部なんだ。人類の生存と発展には直接的な関係はない。それに、鑑賞するだけならインフォメーションのほうが理にかなっている。ぼくが花言葉のインフォメーションを送ったことで、君はちゃんとバラの香りを感じただろう?もう少ししたら、視覚イメージだって浮かんできたのに。それに、もし本物のバラを手に入れたとして、どうするんだ?花なんてすぐに枯れちゃうし、その枯れるまでの短い間にも、水を替えたり、付いた虫を取ってやったりする必要がある。そんな効率の悪いこと、いったいどこの誰がやりたがるんだい?
#31415926535」
あなたは通信をオフにした。さっきまであなたのまわりを埋め尽くしていた花言葉たちは、一瞬にして消えて、あなたの部屋は元に戻った。
(こんなんじゃない)
とあなたは思った。
記念すべき24歳の誕生日は、すでに2時間近く経過していた。
あなたは24歳の誕生日は、一生に一度しかない特別なものだと思っていた。しかし、やはり世間の人が言うように、150分の1でしかないのだろうか。
あなたはやりきれない疲労感を感じ、眠りに落ちた。
翌朝、とっくに5時55分を過ぎたあとで、あなたは目を覚ました。なぜか無性に外の空気が吸いたくなって、あなたは玄関のドアを開けた。
すると、ヒラヒラと何かが落ちてきた。見ると、それは一枚の白い洋封筒であった。寝ているうちにだれかがやってきて、ドアの隙間に挟んでおいたのだろう。
(いったい、だれがこんな古典的なことをしたのかしら。何か伝えたいことがあるなら、インフォメーションで伝えてくればいいのに)
いぶかしく思いながらも、あなたは封筒を開けた。そこには、あなたのプライベート領域にアクセスするためのアクセスコードを記した紙。あなたがマルコに渡したものだ。
それともう一つ、カラカラに干からびた、チョコレート色のコスモスの押し花。
あなたの脳は、それの花言葉を識別する。恋の終わり。
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