11

2/3
前へ
/33ページ
次へ
 行こう、と言われ伊賀に手を引かれる。匠はそのまま伊賀の後を付いていった。表に止めてある伊賀の車まで来ると、伊賀はハッチバックを開ける。 「ここ、奥に座ってよ」  車の中は広くフラットになっていた。道具をたくさん積み込めるように後部座席を外しているのだろう。今はその道具を現場に持ち込んでいるから、比較的広いスペースになっている。 「あ、はい」 「奥にマット畳んであるはずだから、それ敷いて」 「え、あ、はい」  匠は伊賀に言われるがまま隅に畳まれていたマットを開く。靴を脱いでその上に上がると、伊賀も車に乗り込んだ。そのまま内側からハッチバックのドアを閉める。一瞬にして密室になってしまったことに、匠は驚き、同時に焦っていた。 「……子猫ちゃんってさ、無防備ってよく言われない?」  伊賀がそう言って、匠に近づく。匠はそれに笑って返した。 「そんなことないですよ。昔はちょっと言われたけど、今は大分学びましたし」  冷静を装い匠が言うと、伊賀が笑い出す。 「子猫ちゃんはやっぱり子猫ちゃんだな。それとも、こうなることを予想して言われるがまま車に乗った?」  伊賀はそう言うと匠にぐっと近づいた。匠がその分後ろに下がる。 「そんなわけ……伊賀さんのことを信頼してるんです」 「信頼ねえ……そう言えばオレが何もしないって思ってるんでしょ? そうだね、昨日までのオレならしてないかも。子猫ちゃんのことはちゃんと段階踏んで落とすつもりだったから。でもさ、気に入った子が実は男も大丈夫で、なんなら遊んでるって知ったら、我慢なんか出来ないよ」  そう言われ匠は、違います、と言い返した。 「明彦はホントに友達なんです! 俺にはちゃんと恋人がいます。その人以外には絶対に触れさせないんです」  それが克彦への誓いであり、愛情だ。自分を守ることは、克彦の大事なものを守ること――だから、こんなところで伊賀にいいようにされるわけにはいかない。 「恋人か……他人のものを盗るって、ちょっとドキドキするね」  伊賀はそう言うと、匠の肩に手を置き、そのままマットの上に組み敷いた。匠がそんな伊賀を見上げる。 「……ここで止めてくれたら、何も言いません」 「止められるわけないだろ。そもそもこんなふうに二人きりになって、襲うなって方が変じゃない?」  伊賀はそう言うと、匠のシャツに手を掛けた。それを見て、匠が唇を噛み締める。 「確かに不用心かもしれません。誘ってるって言われたら否定もできない。でも伊賀さんはそんな卑怯なことはしないって思ってたから……伊賀さんは明るくて優しくて素敵な人ですけど、俺は伊賀さんのものにはなりません」 「……はっきり言うね。子猫ちゃんの恋人はオレより好物件なの?」  シャツの裾を掴み引き上げようとする手を押さえ、匠は、はい、と冷静に答えた。本当は震えそうなほど怖い。でも、どうしてもちゃんと答えたかった。 「俺とのことを一夜の出来事にしないで、ちゃんと俺の気持ちが追いつくまで優しく待ってくれて……誰より大切にしてくれる人です。だから俺も大事にしたい」  匠がはっきり言うと、伊賀は匠の手を振り払い、何も言わずにシャツを引っ張り上げた。 「伊賀さんとは、いい仕事仲間になれると思ってたのに……」  匠はそう呟くと、自分が肩から提げていたカバンに手を寄せた。そこにぶら下がっている防犯ブザーに触れると、一気にピンを引っ張った。 「えっ、ちょっ……」  車内にけたたましいサイレンの音が鳴り響く。匠は伊賀がその音に怯んだ隙に車のドアのロックに手を掛けた。すると外側からドアが開く。 「匠!」 「克彦っ!」  ドアを開け、両腕を広げた克彦の胸に匠が飛び込む。克彦はしっかりとその体を受け止めた。それから匠の防犯ブザーのピンを戻して音を止める。 「……どういう、こと……」  車の中で呆然としている伊賀がこちらを見つめる。匠は克彦の腕に抱きしめられたまま、そんな伊賀に向かって口を開いた。 「俺の恋人です。世界一俺の事を好きだって言ってくれる人で、俺も世界一愛してる人です」  匠がはっきりと言うと、克彦が驚いた顔をする。これまでこの関係を隠したがっていたのは匠の方だったから、当然の反応だろう。 「克彦は俺のもので、俺は克彦のものです。だから、伊賀さんに触られるわけにはいかないんです」  匠が言うと、伊賀が、そうなんだ、と呟いて少し笑う。 「匠くん、上司と付き合ってるんだ、しかも男の。公表したら楽しくなりそうだね」  匠は伊賀のその言葉を聞いて、この人もか、と心の中でため息を吐いた。マイノリティを暴露したら、こちらが不利になると考えて脅すようなことを言われるのはこれが初めてではない。 「そうね、公表したら楽しそうね。現場監督に乱暴を働こうとした職人なんて、他で雇ってもらえるかしら?」  後ろからそんな声が聞こえ、匠が克彦の腕を解き、振り返る。 「香月さん」  また人が増えて呆然としていた伊賀に、香月が微笑む。 「辻本くんがここに着いた時から、辻本くんのスマホは通話状態だったのよ、わたしと。あなたと辻本くんの会話、全部録音されてるけど……公表したら楽しくなりそうね」  香月がそう言ってから匠にちらりと視線を向ける。匠はそれに頭を下げた。 「香月さんが、スマホを通話状態にしてから行きなさいって言った時はちょっとびっくりしましたけど……こういうこと、だったんですね」  匠の言葉に伊賀が怪訝な顔をする。 「初めから、オレをハメるつもりだったのか?」 「まさか……さっきも言いましたけど、俺は伊賀さんを信頼してたんです。これは、あくまで保険です」  香月と通話したまま、危なくなったらブザーを鳴らす。それが克彦と香月に言われたことだった。ブザーが鳴らなければ、何事もなく帰るだけだったのだ。 「……まだ作業が残ってるから、帰ってくれないか、監督」 「……はい。あまり無理はしないでください」  お先に失礼します、と伊賀に頭を下げた匠は克彦に肩を抱かれ、その場を離れた。
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!

861人が本棚に入れています
本棚に追加