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「そうだ、匠。今日は現場の内装チェックに行くから、遅くなるよ」
朝の洗面所で、鏡越しに視線を合わせた克彦がネクタイを結びながら言う。その隣で歯を磨いていた匠が頷いた。
「晩ご飯は一緒に食べられる?」
口の中をすすいでから克彦に聞くと、その表情は難しいものに変わる。
「夜まで作業すると言ってたから、寝る頃になるかもしれない」
克彦はそう言ってから、匠こっち、と匠を振り向かせると、口の端に付いていた歯磨き粉を指で拭った。その優しい指先に、匠は少し切なくなって、そのまま克彦の胸に体を預けるように抱きついた。
「……夜、克彦のベッドで待ってても、いい?」
「もちろん。私の眠り姫を起こしに行くよ」
克彦が少し笑ってからそう言うと、匠の体を少し離して、そのまま上を向かせるとゆっくりとキスを落とした。匠がそれを受け止め、微笑む。
「ちゃんと起こしてよ」
「ああ。私も匠におかえりと言われたいから、体中にキスしてでも起こすよ」
克彦はそう言うと、再び匠を抱きしめた。
辻本匠が、『鬼上司』の異名を持つ市原克彦と恋人になって二年。一年前は別れの危機まで経験したが、それがあったからこそ、素直にお互いの気持ちや考えを告げるようになった二人は、これまで以上に幸せな日々を過ごしていた。これからもその幸せな毎日が送れると思っていた――この時までは。
オフィスの隣にあるミーティングルームで、匠は円形の会議机の向こうに座る克彦をじっと見つめていた。この部屋には匠の他に数人の社員が集められている。どれも名刺の肩書にデザイナーの文字が書かれている人たちだ。
建築デザイン事務所であるこの会社は当然、多くの建物のデザインをしている。その中でも多いのが、住宅のデザインだ。そういったデザインの依頼は、直接持ち込まれることもあるが、多くがハウスメーカーや工務店からの依頼だ。
それらのほとんどはデザイナーの指名がないため、社内コンペの形を取り、克彦の独断で採用される。最終的に施主に採用されたら現場を任される、という仕事の流れだ。
今日は匠も設計図を提出した案件の発表がされる日だ。
「……まず、サクラハウスの戸建てだが……これは真田の案をふたつとも採用。この現場は真田に任せる。直しがあるから、後で相談」
克彦が言いながら、目の前のタブレット画面に触れる。真田が、はい、と答え、克彦から送られてきただろうメールを自身のパソコンから開いて確認していた。
この案件にも匠は参加していたが、採用はされなかった。けれど、相手が真田なら仕方ないとも思える。真田にはまだまだ敵わないことが多い。
「次に、弓削工務店の店舗リフォームは、草野、やってみないか?」
そんな克彦の言葉に、匠は思わず、え、と声が漏れてしまった。慌てて口を閉じるが、それよりもずっと大きな声で、え、と驚いていたのが、隣に座る草野だ。彼は、今年入社した新人で、匠の後輩になる。去年は新人の採用がなかったから、草野が入ることで匠は初めて先輩になった。
「え、え、主任、僕でいいんですか?」
そんな後輩である草野が動揺したまま克彦に聞き返す。克彦は厳しい表情のまま、それでも大きく頷いた。
「ニーズを押さえてよく出来ている。これをベースに、梶浦、サポートに入れるか?」
克彦に話を振られた梶浦が、入れます、と答える。それを聞いて、克彦はまたタブレット画面に触れた。
「わ、主任からメール! 初めて!」
まだ学生気分が抜け切れていない草野が嬉しそうに言いながら手元のスマホに触れる。
大学在学中に二級建築士の資格を取ったという彼はきっととても優秀なのだと思う。匠より背も高く、体格も男らしいし、短い髪も爽やかな顔によく似合っていて、きっと恋だって失敗したこともないのだろう。自信に満ち溢れている後輩から、匠はふいと視線を逸らせた。
「以上。来週分は明日までにグループチャットに上げておく」
それだけ言うと克彦は立ち上がり、すぐにミーティングルームを後にした。その姿を見送ってから、隣で草野が、先輩、と声を掛けた。匠がそれに反応し、草野に視線を合わせる。
「ありがとうございました! 先輩がアドバイスくれて、そのまま直したから採用して貰えたと思うんです!」
「いや……俺は別に……」
「僕、先輩のデザイン、すごく好きなんです! 斬新で、でも機能的で、ちゃんと遊びもあって。これからもよろしくお願いします!」
大きく頭を下げられ、匠は慌てて立ち上がる。
「そ、そんな、大層なものじゃないから! そ、そうだ! 主任から修正案来てるだろ? それ、早くやった方がいいよ」
捲し立てるように言うと、草野が頭を上げて、そうでした、と立ち上がる。失礼します、と走っていく姿を見送ってから自分もオフィスに戻ると、辻本くん、と呼ばれ、匠は振り返った。
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