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 翌日、恵海の足は朝一番で大潟拘置支所に向かった。時刻は十時前。大通りから一本入り、その細い通り沿いに塀で囲まれた二階建てがあった。警備員に会釈して門を潜り、玄関を入る。どこまでも静寂が漂う空気の中、受付で手続きを済ませると、待合スペースのソファに腰を下ろし、待った。 「三番の方、二号面会室にお入り下さい」  その声に覚悟を決めると、恵海は小さく返事をして立ち上がる。  面会室は真ん中がアクリル板で仕切られた部屋だった。恵海が用意されていたパイプ椅子に座ると、対面の部屋に一〇四番が入ってくる。灰色のニットとライトグリーンのスエットだ。  彼はアクリル板越しの対面のパイプ椅子に座ると、鼻をひくつかせ、驚いたように目を大きく開いた。 「お久しぶりです」  と声を掛けた恵海に留置番号一〇四番は目を細め、少し考え込むように首を(ひね)ると、口元が笑みで(ゆが)んだ。 「里仲恵海さん、ですね。妹から、よく聞いていました」 「覚えてらしたんですね」  それはまだ恵海が小学校に上がる前のことだった。  児童館の図書コーナーが好きだった彼女はいつもお決まりの席に陣取り、絵本を抱えられるだけ持ってきて積み上げ、じっくりと声に出して読むのが好きだった。その浅黒い肌の少女は、それをにこにことして聞きながら、よくその言葉の意味について尋ねていたことを思い出す。  ――あなたのおなまえは何?  そう尋ねると少女は首を捻って「わからない」と答えた。  受け答えがうまくいかない子たちもそれなりにいたので、恵海は特に気にすることなく、続いて「絵本いっしょに読む?」と聞くと少女は笑顔で頷いたので、その日から恵海は少女に絵本を読み聞かせるようになった。その少女には一人の兄がいた。閉館の少し前になるとやってきて、少女の手を引いて帰っていく後ろ姿を覚えている。 「あの当時、結局最後まで名前を聞けないまま小学校に上がるとぱたりと会えなくなってしまったけれど、あれは名前を言えなかったんじゃなくて言わないようにしていたんですね」  恵海の言葉に、一〇四番は少しだけ目元を緩ませる。 「不法移民。戸籍を購入し、名義を変えながら生活していたのも、この国でのあなたの戸籍が存在しなかったから。つまり、あなたの名前はこの国にはなかった。それが法廷で本当の名前を尋ねた理由ですか?」 「本当の名前は母親にしか呼ばれたことがなかった。妹もそうです。ワタシたちはこの国に来たことで命を救われました。けれど普通に生活することを許された訳ではありませんでした」  仕事を求めてやってきた移民の在留資格が切れ、バイヤーから購入して日本に住み続けるという実態を、以前守谷と共に調べたことがある。 「妹さんはお元気ですか?」 「妹は亡くなりました。けれど、彼女の戸籍はありません。遺骨を受け取ることもできず、役所が預かっています」 「ひょっとして……轢き逃げ事件」 「はい。妹は殺されました。喜多川賢介に」 「だから殺したんですか?」 「あの日、ワタシは仕事の話をしに、喜多川に会いに行きました。喜多川は戸籍のブローカーをしていて、ワタシはその仕事を手伝わされていたからです」  何かアンダーグラウンドな仕事をしていたらしい、と言っていたが、まさか移民ビジネスに関連していたなんて想像もしなかった。 「酷く酔っていた喜多川は年末に人を轢き殺してしまったことを告白しました。あれからよく眠れないんだと語っていましたが、それがワタシの妹だとは知らなかったようです。だからワタシは責任を取れと言いました。警察に自主するように言いました。けれど喜多川はワタシを殺そうとしました。ベランダから突き落とそうとして、彼が、代わりに落ちました」  それは正当防衛だ、と恵海は叫びそうになったが、彼が首を横に振ったのを見て口を噤んだ。 「ワタシは喜多川賢介を殺したかった。だから、ワタシが殺したのです。ワタシは刑を受けます。その時に初めてワタシはこの国の住人となるでしょう」 「そんなの、理解できない」 「ずっとそれを望んでいたのです。もう故郷へは戻れない。多くの仲間たちが死にました。そこから逃げ出したワタシたちに、もう居場所はないのです」 「そんなことはない。居場所は……自分たちの居場所は、自分たちで作ればいいんですよ。この香り、分かりますか?」  彼は静かに頷いた。 「香りの主成分はオイゲノール。クローブと呼ばれる香辛料です。どこかでよく嗅ぐ匂いだと思っていたら歯医者で使われているんですね。でも私が思い出したのはそれじゃなかった。幼い頃、妹さんの指先に付いていたものの匂いだった。ネルガ料理に使われているものだったんですね」 「懐かしい。昔はよく母が作ってくれました。この国でもインドやタイのカレーはあります。でもネルガのヒヌンはない」 「ありますよ。藤岡食堂に」 「あそこは……」 「今の藤岡さんの奥さんがネルガの方なんです。その紹介で、ネルガの移民支援団体の方とも会って、話を聞いてきました。当時とは違って、今は支援の手があります。まだ、やり直せるんです」  だがそこまで語ると、壁際に控えていた警察官が咳払いをし「時間です」と冷たく告げた。  彼は微笑を浮かべ、ただ「判決で会いましょう」とだけ言って席を立ち、面会室を出て行った。
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