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5
四月の第二週の金曜が、判決の日だった。
傍聴席に人は疎らで、時間があったら行くと言っていた守谷の姿はない。恵海は一人緊張した面持ちでその時を待っていた。
警官に連れられ、被告人である留置番号一〇四番が入廷してくる。彼は一瞬恵海の方を見たが、表情は変わらず、そのまま被告人席に就いた。
法廷の扉が閉められ、裁判長が小さく咳払いをすると「被告人留置番号一〇四番についての判決を言い渡す。被告人は前へ」と告げ、判決文を前に広げる。彼は証言台の前にゆっくりと歩み出て、そこで俯いた。実刑が出る覚悟を決めているのだろう。
「判決を読み上げる前に、今一度被告人に問いたいと思います。あなたの名前を教えてくれませんか」
留置番号一〇四番、とは呼ばず、裁判長は被告人と呼んだ。彼の今日の姿はレモンイエローの上着にライトグリーンのスエット。それはネルガの国旗を思わせた。
「あなたの名前は?」
裁判長は沈黙を守る彼にもう一度尋ねる。しかしその問いは沈黙を破ることはできなかった。諦めたように首を振ると「では判決に移ります」と告げ、開いた紙へと視線を落とす。
「主文、留置番号……」
「彼の名は……本当の名前は、タン・ル・スウです!」
その声は恵海のものだった。
裁判官や裁判員たちだけでなく、傍聴席で見守っていた聴衆、警備員、その誰もが驚きと戸惑いを見せていた。
「そうですか。では、タン・ル・スウさん。聞いて下さい」
被告人タン・ル・スウに有罪判決が下り、刑務所に入ってから、三ヶ月が経った。
四十人乗りのバスは国境の峠を超え、土埃が舞う駅舎の前で停車する。
恵海は英語でありがとうを伝えたが、バスの運転手は小首を傾げただけだった。
「行きましょう」
ガイド役のソイ・ヌ・チーに促され、ステップを下りると、見慣れない文字で書かれた看板が幾つも立っていた。彼女は柳田弁護士事務所で受付をしていた事務の女性だ。地井さんだと思っていたら、ソイ・ヌ・チーという名前が縮めて呼ばれていただけだった。
第三国経由でネルランディアに入ったものの、政情不安定でいつ銃撃戦が始まるとも限らないと言われている。実際、視界に入った建物のいくつかは破壊され、壁に穴が開いている。
と、空を哨戒機が飛んでいく。恵海は思わず頭を覆ったが、特に何もなく、その影は行ってしまった。
そこからタクシーを使い、一時間ほど走った先の寺院を訪れる。
恵海の手には複雑な手続きを経て何とか持ち出せた彼の妹の遺骨があった。
――ひとつだけお願いがあります。
それは判決後の面会で彼から頼まれたことだった。
『妹を母国の地に、還してやってほしいのです』
赤い衣を巻いた若い僧侶が、墓地になっている裏山に案内してくれた。
そこはただ開いた土地に積み上げた石だったり、木の板だったりが立ててある。
恵海はソイ・ヌ・チーと協力して穴を掘ると、小さな木箱をそこに収めた。上から土を掛け、その上に僧から渡された木の板を立てる。
そこにはこの国の文字でこう書かれていた。
――レイ・ル・スウ。
彼女の本当の名前だ。(了)
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