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被告人は前へ――白髪混じりの裁判長がしゃがれ声を響かせると、ライトグリーンのシャツにジーンズ姿の短髪の男性は席を立ち、証言台へと歩み出た。
「あなたの名前は?」
「ワタシの、名前……」
男性はそこで言い淀む。
「ワタシの名前は何ですか? ワタシの本当の名前を、呼んで下さい」
朗々とした声だった。冗談の含みもなく、からかうような態度は見えない。傍聴席に座っていた里仲恵海は手帳を開いたまま唖然とする。
「あなたに聞いているんですよ、留置番号一〇四番。あなたの名前を答えて下さい」
やや苛立った声音で裁判長は繰り返すが、男性は軽く首を振ると背を向け、傍聴席側を見やり、改めてこう告げた。
――ワタシの本当の名前は、何ですか?
刑事訴訟規則第百九十六条には『裁判長は、検察官の起訴状の朗読に先だち、被告人に対し、その人違でないことを確めるに足りる事項を問わなければならない』とある。
恵海は中能新聞社の自分の席でパソコンのモニタに大きく映し出された刑事訴訟規則の条文を睨みつけながら、左手でサンドウィッチを食べていた。
「初公判はどうだった?」
その脇に紙コップのコーヒーが置かれる。手の甲にわさわさと濃い毛が生えているのはベテランの守谷透しかいない。
「一つ聞いてもいいですか?」
ああ、と生返事をした守谷は朝が早かったのだろう。目を細めながらその髭面で大きな欠伸を見せる。
「被告人が名前を名乗らないのっていいんですか?」
「なあ里仲。名前ってのは何だ?」
また守谷の禅問答めいた質問が始まった、と感じて恵海は渋い顔を作る。
「名前はどんなものにも付いているタグみたいなもの、ですかね」
「そのサンドウィッチの名前は何だ? ハムサンドか? 玉子サンドか? どんな風に呼べばそのサンドウィッチがお前が食べているものと他人が食べているものを区別できる?」
「これは里仲恵海のランチ用のハムサンドです。見れば分かるじゃないですか。そもそもサンドウィッチはサンドウィッチでそれが裁判と何か関係ありますか?」
「見れば分かる。その通りだ。裁判でも証言台に立った被告人が起訴された本人だと認められればいい訳だから名前なんて必要ない。仮に名乗らないことで裁判できないのなら不都合な被告はみんなだんまりを決め込めばいいってことになる」
確かに、と口の中で呟く。
「じゃあどうして彼は名前を名乗らなかったんでしょう?」
「それについて考えるのがお前の仕事じゃないのか?」
「守谷さんはこんな時にどうするんですか?」
「あのな」
また始まる、という予感で恵海は気持ちの痛みを堪えようと目を細めた。
「ここは学校じゃない。なんでもかんでも聞けば教えてもらえるなんて優しい世界はないんだよ。分からないなら自分で調べる。調べた材料を並べて自分の頭で考える。誰かに意見を求めるのはそれからだ。自分の考えはどうなんだ?」
「私は……彼の名前を知りたいです。本当の名前を」
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