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chapter⑥
慎文がいなくなってからの水曜日。
あれからメッセージの返信はなく、トーク画面を開いても既読すらついていなかった。
慎文のことはその間も気になっていたが、年末年始の長期休暇を前にして仕事が多忙なあまり、ここ数日は別の事を考えている余裕がなかった。
そんな怒涛の日々が過ぎ、仕事納めを終えた和幸は会社を出たところで深く息を吐いた。
「かずくーん」
疲労感で鉛のように重たい足を進めていると会社前のオブジェを横切ってすぐに名前を呼ばれた。自分をカズくんと呼ぶ人間は限られている。
もしかして……なんて僅かな期待を寄せながら振り返ってみると、そこには自分が期待をしていた人物の姿はなかった。
茶色い短髪に和幸と左程変わらない身長。
慎文が先輩と呼んでいた櫂とかいう男だ。
此奴がどうして和幸の会社に来ているのか不可解だった。
催事の関係者であれば、慎文が地元に帰ったことなど知っている筈だ。
よって男が和幸を訪ねてくる理由がない。
飲みの席でのこの男に対する不信感は抱いたままだし、慎文と関係がこじれてしまった以上、関わりたくない。
和幸は呼びかける声を無視して先を急ぐと「ちょっと、ちょっと」と言いながら櫂に肩を掴まれた。
「カズくんのこと呼んでるのに露骨に避けないでよ」
「慎文は帰りましたけど?」
「知ってるよ」
なら何故話し掛けたと問いたくなったが、足を止めてしまえば櫂の思う壺のような気がして先を急ぐように歩みを進める。
櫂はそんな和幸の歩幅に合わせて並列して着いてきていた。
「ねえ、今からどう?」
繁華街にいる客引きかのように集ってくる男が鬱陶しい。
「予定あるんで、遠慮しておきます」
「こんな年末に?彼女と年越しでもすんの?」
そんな彼女など居るわけがないが、勝手に憶測をたてられたところで答えるだけ無駄だ。
「カズくんって切り替え早いタイプ?慎文を振り回しておいてそれはないんじゃない?」
「は?」
櫂の言葉に思わず足を止めた。
よくよく考えれば櫂は慎文と付き合っているという事実以外は、知らないはずだ。
話すと言うならば慎文本人が此奴の事を話したのだろうか。
あんなに怖がっていた癖に櫂と連絡をとっていたのだろうか。
「言っておくけど、慎文からは何も聞いてないから。連絡先なんてあいつが教えてくれるわけねーし。でもアイツがあんたに振り回されていたことくらいは何となく分かってた。俺の誘いに乗ってくれんなら慎文のこと話してやってもいいけど?」
和幸の心を詠んだかのような返答にギョッとする。
慎文のすべてを知っているような自信満々の表情が、やけに腹立たしい。
悔しいけどこの男の話が気になるのも正直な気持ちだった。
居酒屋に行くほど長居をする気はなかったが、幸いのことに櫂が向かったのは酒屋が建ち並ぶ繁華街ではなく、駅前の喫茶店だった。
酒が入ると下世話な話になり兼ねない。喫茶店であればあまり大声で下品な話をするわけにはいかないだろうし、安堵した。
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