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chapter⑨
◆慎文said◆
雪が解け始め、漸く春の兆しが見えようとしている頃。矢木田慎文は恋人に会うために夜行バスに揺られていた。
幼いころからの想い人である、井波和幸と正式な恋人となって早二カ月。
札幌と道東にある地元とでは、お互いに行き来するためには半日がかかる。
気軽に会いに行ける距離ではない物理的なもどかしさと、慎文の仕事柄休みなどないので時間的な意味でも逢いに行く現状に悶々とする日々だった。
毎日電話で和幸の声を聞いているものの、声を聞けば聞くほど会いたくなってしまう。
そんな中で我慢ならなくなった慎文は今回ばかりは無理を承知で兄に頼んだ四日ほどの休みに喜々としていた。
一年単位でしか会えていなかった関係が、定期的に会える関係へと近づいたのは大きな進歩である。
会いに行くときは和幸の休みの前日の夜に出発すると決めている。
せっかくの短い間を移動で潰して、和幸との時間を減らしたくなかったからだった。
慎文は胸を躍らせながらも明け方に備えてバスの中で毛布をかぶり、眠りついた。
目が覚めると和幸のいる街に到着していた。
到着するなり、スマホを開くと時刻は朝の七時を少し過ぎていた。
まだ寝ている和幸にメッセージを送ると地下鉄駅の方へと向かう。
地下通路を通って十五分ほどの隣駅から橙色の電車線に乗り継ぎ、二つほど先の駅で下車しては和幸の住んでいるマンションへと足を急がせた。
マンションのエントランスを抜けてエレベーターに乗り込み、三階の和幸の部屋の前で立ち止まると間髪入れずにインターホンを押す。
暫くして鉄扉越しに聴こえる足音に耳を澄ませては胸を高鳴らせていた。
もうすぐ好きな人に会えるのだと思うと、今すぐにでも扉を突き破って彼に飛びつきたい。
足音が止み、ドアノブが捻られると開かれた扉の先には和幸がいて、慎文は勢いよく彼に飛びついた。
「和幸っ……‼」
「うわっ……」
あまりにも勢いをつけつぎてしまったせいか、慎文の伸し掛かる体重に耐えかねた和幸は玄関先で尻餅をつき、そのまま倒れてしまった。
慎文も追いかけるように上がり框に膝をつけて、和幸の胸に抱きつく。
上目遣いで見上げる彼の顔が愛おしくてたまらなくなった。
温かみのある白いセーターにスラックス。長めの前髪が少しだけ幼く見えて可愛らしい。
「お前なぁ、家に来た途端に全体重を俺に預けてくるのは勘弁してくれ」
「和幸に会えるのが嬉しくて」
腰を摩りながら訴えてくる和幸。どうやら倒れる時に腰を打ってしまったらしい。
多少の申し訳なさはあったが、和幸に会えた嬉しさの方が勝って歯止めを利かせられなかった。
和幸は顎をしゃくらせながらも慎文のことを見下ろしてくる。
久しぶりに見る愛おしい人の顔。
こんなに近くにあることに胸に込みあげる感覚を覚え、気づけばにじり寄って顔を近づけては、そのまま唇を重ねた。
「んっ……」
外気の乾燥からカサついていた慎文の唇は和幸とのキスによって潤っていく。
数ヵ月前までは拒絶されていた行為が今は躊躇いなく受け入れて貰えている。舌を絡ませて熱いキスを交わしているうちに、和幸に触れたい衝動が強くなってきていた。
手を床につけている和幸の右手に左手を触れ合わせては、彼の服の裾から洋服の中へと空いている右手を忍ばせる。
冷えた手が身体を這うことに驚いたのか、和幸は一瞬だけ身体をビクリと震わせると、慎文の悪戯な右手を掴んできた。
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