chapter⑩

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少しだけランチに向かうような気楽な用事ではないらしい。 ふと、母親が自宅を出る前に自分にしかできない仕事だと言っていたのを思い出す。父親や兄は商談が苦手で、二十代後半になった頃から、愛嬌のある顔を理由に表立った仕事は何かと任されてきた。 今回もそういった仕事の一環で農場の事務仕事もしている母親に借りだされたのだろうか。 タクシーを走らせ四十分ほどしたところで、隣町にある駅前付近の大きな宿泊ホテルが見てきた。 ホテルの正面玄関口でタクシーから降ろされたことで、商談関係の用件であることが明確になっていく。ロビーで受付を済ませると暫くしてホテルラウンジへと案内された。 慣れない雰囲気に緊張しては自然と肩に力が入る。 大体は農場に来てもらってツナギのまま、仲介会社の方と話をすることが多いため、今回のように畏まった形で受けるのは初めてだった。 窓際のテーブルとソファ椅子が対面で四つ並べられている座席に案内されては母親と隣同士で腰を掛ける。待っている間も母親からは、何か説明を受けるわけでもなく「貴方はただ、黙って座っていればいいから」とだけ言われる。 全く持って話が見えていない状況で父親の面子を潰さぬように上手くやれるか不安であった。 「矢木田さんですか?」 時折珈琲を飲みながら母親との沈黙をやり過ごしているとホテルの従業員に案内され、スーツの中年男性に声を掛けられた。 年齢は母親と同じくらいだろうか。 隣には見た目が若そうな淡い桜色の着物を着た女性が立っていた。その女性を目にして慎文の中で胸騒ぎがした。 母親は二人を見るなり立ち上がってお会釈をすると、母親に肩を叩かれたので慎文も慌てて立ち上がる。 「ええ、そうです。襟沢(えりさわ)さんですか?今日はよろしくお願いします。どうぞ、お座りになってください」  母親は挨拶をした後で相手方の二人に目の前の座席に座るように促す。状況の整理がつかずにおいてけぼりの慎文であったが、女性の風貌から明らかに仕事の話ではないことを悟った。 二週間ほど前に母親からお見合いの話を持ち出されたことが頭をよぎる。確か、その時はその気がないと断ったはずだった。 「ねぇ、母さんこれって……」  着席すると同時に母親に小声で話し掛けようとしたが「しっ」と人差し指を口元に当てて、言葉を遮られてしまい、慎文の言葉を耳に入れる気は無いようだった。
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