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プリアモス王は、カッサンドラを結婚させる気はない。アポロンの花嫁としての力を、トロイアに役立ててほしいからだ。
しかしヘクトルの見たところ、父と母の本音は、美しく賢い娘が可愛いあまりいつまでも手元に置きたい、というところのようだ。
カッサンドラがアポロンの花嫁であることは、トロイアの力になる。
しかしヘクトルは兄として、妹には普通の女の人生を送ってほしくもある。結婚して子を産み育てる幸せを知ってほしい。自身が結婚し息子を持ってから、ますますその気持ちが強くなった。
カッサンドラは妹だが、妻アンドロマケより年上だ。結婚させるなら、今しかない。
「俺とカッサンドラさんが結婚? 無理でしょ?」
トリファントスは、相も変わらず口をパクパクさせている。
カッサンドラは目を吊り上げた。
「お兄様! どうしていつも人の男と結婚させようとするのです?」
「お前が無理強いされたのならたとえ賢者殿とて俺は許さぬが、そうではないのだろう?」
「やめてください! 私はトロイア人だろうがアカイア人だろうが、いえ、たとえ神様でも嫌! アポロン様以外は」
「なら、なぜお前はいつまでも賢者殿と手を繋いでいるのだ?」
ヘクトルが客間に入ったときから、二人の手は固く結ばれていた。
彼らはハッと顔を見合わせ、慌てて手を離す。
まさに恋が始まったばかりの男女ではないかと、ヘクトルは初々しい心地を覚える。
「違う! これはカッサンドラさんに無理に引っ張られて」
「あなたが逃げようとするからでしょう!」
「なんだ。カッサンドラから言い寄ったのか……」
ヘクトルは、ますます微笑ましい気持ちになった。それなら是非とも妹の恋を成就させてやりたい。
「賢者殿。これでも妹には、他国の王子たちから幾度も結婚の申し出があったのだ。変わった娘だが、妻にするのは悪くないと思うぞ」
「俺、四十過ぎですよ! こんな若くて美人のお嬢さんを俺みたいなおっさんと結婚させたら、かわいそうです!」
ヘクトルはわずかに顔を歪めた。
「やはり賢者殿は、トロイアの女では物足りないのか」
「お兄様! 私にはアポロン様が」
各々の主張が入り乱れ収集が着かなくなった場に、透き通る女の声が響いた。
「ヘクトル様、お客様を立たせたままで、どうなさったの?」
夫の上着を抱えたアンドロマケが、割り込んできた。
「そんな姿をいつまでもさらすのは、失礼ですよ。あなたの妹とはいえ、高貴な姫君なのだから」
湯上がりのヘクトルは、腰に布を巻き付けただけの姿で突っ立っていた。
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