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アカリは視線を上げた。
店内である。カウンターに案内された彼女は、震える声で語った。
「最初は、変な店だって思いました。でも……ひと口蕎麦を食べたとき、なんだか体がふわっとして……」
鼻に抜ける出汁の香り。包み込みこむような温かな湯気が、心の奥底までじんわりと染み入ってくる。蕎麦の、つるりとしていながらももっちりとした噛み応え。噛みしめるたびに、小さいころからの思い出が溢れかえってくる。
アカリの脳裏に、家族三人で笑いあっている姿が浮かんだ。いつものように仲が良く、小さな言い合いこそあるものの、自分の尊敬する、仲の良い両親の姿。
失いたくない。
「あたし、この蕎麦を、お父さんやお母さんに食べさせたい。自分で作れるようになって、それで」
両親にも思い出してもらいたかった。アカリはそう語ると、ぐいっと拳で涙を拭った。
「こんなに美味しい蕎麦を食べれば、もしかしたら思いとどまってくれるんじゃないかって。離婚をやめさせられるんじゃないかなって。そう思って……」
なるほどそういうわけか。ミノルとマッキーは頷いて目線を交わした。
「お話はよく分かったんだがな、それならその両親とやらをここに連れてきた方がよかないか? 何もお嬢ちゃんがわざわざ弟子入りしなくても」
「いえ」
ミノルの話を遮って、アカリはキッと目に力を入れる。
「だってこれは、あたしの家の問題だから。あたしが解決しないといけないんです。こっちが本気だってこと、お父さんやお母さんにちゃんと証明したいんです」
――なるほど、あっぱれ。
ミノルは小さく口笛を吹いた。
やり方は多少強引で、思い付きで行動しているようにみえる。しかし、この子供は分かっているのだ。覚悟を見せるということがどれだけ大切であるか。すでに決まってしまったことを動かすには、それだけのパワーが必要だということを。
店内に通されたアカリは、最初は明らかに戸惑っていた。無理もない。昼と夜とじゃニハチ蕎麦、ずいぶんと印象が変わるものだ。あやかしものたちはすでに退散している。彼らは見た目に反して臆病で人間が苦手なのだ。しかしながら、そこかしこに漂う怪しげな雰囲気はどうにも拭えない。まだ若い女の子にはさぞかし不気味に映ったであろう。
それなのに、このアカリという子は、暖簾をくぐった。見た目は普通の子供のように見えるが、相当に肝が据わっている。
ミノルはニハチにちらりと目を向ける。さてニハチは、いったいどうするつもりであろうか。
ニハチはどんぐり眼を見開いて、まじまじとアカリを見つめていた。
いっそ清々しいまでの短絡思考だ。直情的で、そこには根拠もなにもない。仮に本当に蕎麦打ちを習い、アカリ自身が腕を振るったとしても、彼女の両親がそれで考えを改めるとは到底思えなかった。
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