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「っはは、傑作!」  そう言って笑うミノルを、ニハチは軽くねめつけた。  早朝。まだ柔らかな日が周囲を青く染め、柔らかな春風がそよそよと吹き込んでくる。勝手口で、ニハチは今日の仕込みをしていた。いつものように鰹節を削り、昆布と共に出汁を取る。その間に付け合わせの山菜を手早く洗った。水は冷たい。山の雪解け水が流れてくるためだ。 「で、その女の子、どうしたのさ?」  ミノルはどっかりと椅子に腰掛けると、あぐらを組み、かかと笑う。 「どうしたもこうしたもありませんよ」  対するニハチはため息も重い。 「ふつーに食べて、ふつーにお金置いて、帰って行きましたよ。ほら、十六円」  カウンターの隅の小皿に、十円玉一枚と一円玉が六枚。昨日の駄賃のようであった。 「もう、僕、自信なくしちゃいましたよ」  ふてくされるニハチを一瞥し、ミノルはにっかりと笑った。明るい茶髪が日に映えて、きらきらと光っている。 「ほんとになあ。そんなんじゃ、二度化かしの名が泣くぜ」 「言わないでください」  ますますふてくされるニハチの頭をカウンター越しにぽんとたたくと、ミノルは眉を下げる。 「まあ、あんまり気にしなさんな。最近の子は、肝が据わっているからなあ」 「でも、あんなにびくともしないのは、初めてだったんですよ」  そりゃあ、驚かれないのは慣れてますけどね、と呟いて、ニハチは寸胴鍋に火を入れた。今日の仕入れは採れたての蕨とゼンマイである。これを湯がいて、掛け蕎麦に乗せれば、春の香りがぎゅっと詰まった美味しい山菜蕎麦となるのだ。  ふつふつとわき上がるお湯の泡を見つめながら、ニハチはもう一つ、ため息をついた。  二度化かしのニハチ蕎麦、といえば、昔は大層有名であった。味についても勿論であるが、『化かし』の術も天下一品。特に先代、ニハチの前の店主であるヤジロ小父は、二度化かしをさせたら右にでる者はいなかった。  お湯を眺めながらニハチは思う。  いったい、自分と小父とは何が違うのであろうか。  昨日の女の子……女子高生であろう、あの子が来たときは、しめた、と思ったものだ。化かしには暗闇が一番。都会の闇は薄いので、意を決して最近田舎に越してきたはいいが、歩いているのは散歩中のおじいさん、おばあさん。どうしてもニハチは躊躇してしまうのだ。万が一怪我をさせたりしたら、二度化かしの名が泣くというもの。化かしに危害が加わるのは言語道断、それこそ二流の烙印(らくいん)を押されてしまう。  だからこそ、若くて生きがよく、気持ちのいい悲鳴を挙げてくれるような人を、ずっとずっと待っていたのである。  何を隠そう、このニハチ、人間ではない。化け物、妖怪、あやかし……そういった類のモノである。  ふわふわの髪の毛を白手ぬぐいのほっかむりで包み、目はくりくりのドングリまなこ。絣の着物に前掛けかけて、しっかりとたすき掛けをした姿は、どこから見ても丁稚小僧。しかしこう見えて結構な歳なのは秘密だ。  対するミノルは金髪碧眼、一見ハーフのような彫りの深い顔立ちをしている。あやかしものと友だちの彼が人間であるわけもなく。普段は山の隠れ里に住んでいるのだが、時にはこうして里におり、山菜などを届けているのである。無論、彼も見た目通りの年齢ではない。 「化かし方、変えてみたらいいんじゃねえの?」 「変える、とは?」  首をひねったニハチに、ミノルは呆れたように肩を竦めた。 「イマドキ、のっぺらぼうじゃあねえ。学園祭じゃああるまいし」  先代ヤジロはこれで一発大穴当てて、一躍時の人となったものだ。今でも小説や怪談のモチーフになっているというのだから、その影響力は折り紙付きである。 「もっと別のもんにした方がいいんじゃね?」  頬杖をつきながら呟いたミノルに、ニハチは首を振ることで答えた。 「いいえ、いけません。二度化かしは最高の『おもてなし』だと、先代から口を酸っぱくして言われています」 「とは言ってもねえ」  ミノルは自らの髪をくるくると人差し指で巻いた。ニハチはこの方法を崩そうとしない。彼とて優秀な化かし手であるのだが、どうにもこの『二度化かし』にこだわるのである。  髪をもてあそぶミノルを横目で見ながら、ニハチは沸騰したお湯に重曹を入れる。白い泡がじゅわりと立ち上がるのを見て、すかさず蕨、ゼンマイをどさりと放り込み、菜箸でかき混ぜ、火を止めて軽く揺すった。寸胴を下ろして蓋をする。このまま半日おいておくのだ。山菜は、そのまま食べるとえぐみが強い。灰汁を取ってからでないと使えない。 「美味しいものは、手間がかかるんですよ」  ニハチほっかむりを外すと、手ぬぐいで額の汗を拭う。春とはいえ、厨房にこもっていると、やはり、暑い。 「だからこそ、二度化かしは変えられません。美味しい蕎麦には、ちょっとしたスリルとサスペンスが必要なんです」   やれやれ、とミノルが肩をすくめた、そのときである。  足音が聞こえた。外からである。砂利を踏みしめる音がさく、さく、と響いている。  二人は目を見合わせた。 「珍しい」 「お客さんでしょうか」 「こんな時間に?」  壁にかかった柱時計は、ようやく朝の六時を回ったところである。 「散歩中のご老人ですかね」 「いや、ちがう」  ミノルは耳を澄ませた。  足音は軽やかに近づいてくる。恐れを知らない若者のものだ。 「何でしょう」 「近づいてるな。ここに来るのか?」  周囲は畑や田んぼだらけの場所である。こんなところを通るのは地元の住人だけであるが、まだ畑仕事には早い時間であるし、この蕎麦屋、一度招いた客以外には人からは見えないようになっている。  足音はもうすぐそこだ。軽やかな、おそらくは女性の足音である。それはまっすぐとこの蕎麦屋をめがけて近づき、そして。  止まった。  藍染の暖簾の下から、茶色いローファーが見えている。靴の持ち主は二、三度店の前を行き来し、そしてもう一度、店の前で止まった。どうやら入りあぐねているようである。 「僕、ちょっと見てきます」  ニハチそう囁くと、は手ぬぐいを軽くたたむと、カウンターの上に置き、忍び足で入り口に近づいた。そっと暖簾をあげる。 「あの、何かご用で――」  そこで、ニハチの言葉が止まった。  遅れてミノルも外へ出た。  入り口に立っていたのは、女の子であった。なかなか可愛い顔立ちをしている。髪は茶色いセミロング、目は大きく、猫の用なアーモンド型をしている。学生なのだろう、白いシャツに折り目正しいプリーツスカートが良く似合っていた。 「朝早くからごめんなさい。昨日は美味しい蕎麦をありがとう」  少女は一度目を伏せ、そして、開いた。 「お願いがあります」  強い意志を感じる瞳である。ニハチは思わずたじろいだ。 「あたしを」  少女はそこで言葉を区切った。ゆっくりと、自分に染みこませるように息を吸い、ややあって、口を開いた。 「あたしを、弟子にしてください!」
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