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一連の流れを聞いたマッキーは片方の眉を上げた。
「それで?」
「それで、おしまい」
「もったいない!」
セミロングの髪をかきあげ、マッキーは背もたれに体を預けた。
「なに、ニハチちゃん。あんた、若い女の子が、そんなに情熱的に! 弟子にしてほしいって言ってきたのに。すげなく断っちゃうなんて。男がすたるじゃないの」
「すたるもなにもないでしょうマッキーさん」
ニハチは呆れ顔である。
「蕎麦の味を気に入ってくれたのは嬉しいですけど、だからといって弟子なんて、無理ですよ」
「どうして?」
赤く染まった目元を細め、マッキーはすうと笑った。猫のような笑みである。柔らかい声は優しい。まるで母親が子供に言い聞かせているかのような響きであった。
「実際、いい腕じゃないのニハチちゃん。出汁にもこだわってるし、蕎麦もコシがあって、ほんと、美味しい」
そうなのである。
実際ニハチは良い職人であった。出汁の取り方や麺のうち方だけではない。付け合わせの研究や、水や粉の産地、気温、季節。あらゆることにこだわる様は、先代ヤジロをも越えている、とマッキーは思っている。彼がここまで心血注いでいる蕎麦のことだ。その技術を伝えたい、残したいと思うのは、技術者の本能なのではないだろうか。
問いかけの視線を向けると、ニハチはあからさまにたじろいだ。
「ありがとうございます。……でも」
ほんの少しだけ、ニハチの表情が曇った。
「どうしても、無理なんです」
ニハチはそれきり口を閉ざし、厨房の奥へと引っ込んでしまったのである。
「まったく、頑固ねえ」
ため息と共に呟いて、マッキーは日本酒をちびりと舐める。ミノルは軽く笑って椅子にもたれた。
「まあ、無理もないわなあ」
「あら、意味深ね」
「んなことねえよ。ただ、相手は人間だ。面食らうのも仕方ないだろ」
「ずいぶんと肩を持つこと」
「人間は俺らと違って、あっという間にいなくなっちまうからな」
「やだ、センチメンタルじゃない。刹那的な出会いってのもいいものなのに。まだまだ青いのね、ニハチちゃんも」
ふふん、と笑ってマッキーは箸を取る。ワラビを少量とって口に運んだ。口一杯に程良い苦みが広がり、丁寧にとった出汁の香りとの絶妙なハーモニーに、うっとりと目を細める。
「うん、春ねえ」
そのときである。ざわりと空気が動いた。
「なんだ?」
見ると、背後でやんやと宴会をしていたあやかしものが、ざわざわとどよめいているのである。
「どうしたんですか、急に」
ニハチも顔を覗かせた。
――人間。
――人間が、来た。
ひそひそ、と交わされる声に、ニハチとミノルは目を見合わせた。
「人間?」
「まさか」
砂利を踏む、ざくざくという音がする。まだ軽い、若い人間の足音だ。その足音には聞き覚えがある。
「おい、ニハチ、もしかして」
「失礼します」
ミノルの声を遮るようにして、軽やかな声が被さった。鈴を転がすような声。暖簾の向こう側に、紺のソックスに包まれた細い足首が覗いている。
間違いない。
ニハチは天を仰いだ。
あの、アカリと言ったか。あの子が、来たのだ……。
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