ベルの木

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 戦争が始まった。  多くの人が死んだ。  墓守りのおじいさんの仕事は忙しくなった。  おじいさんは、死者を埋めたあとにベルの木を植える。  丹精込めて育てると、木は大きく育ち、50年経ってベルの実をつける。  その実が熟すと、死者の音を奏でるのだ。  その音は一つとして同じものはなく、その死者のものだとはっきりとわかる音だった。  だが50年も経つと、生前の姿を覚えているものはほとんどいなくなっているから、その音は虚しく響く。  おじいさんは孫娘と二人で暮らしていた。  死期が近いことを知ったおじいさんは、孫娘にいった。 「私の墓には、お前がベルの木を植えておくれ。そうして丹精込めて育てて、ベルの実をつけたら、その音を聞いておくれ。そしてどんな音だか、私に教えておくれ」  孫娘はいった。 「嫌よ。木のお世話をするだけの人生なんて、まっぴらごめんだわ。それに、私がベルの音を聞いたって、おじいさんはとっくの昔に死んじゃっているのよ。教えてあげられないわ」  おじいさんは悲しんだ。  だが、若いものには若いものの人生がある。  やがて戦争が激しくなると、孫娘は銃を手に取って戦場に行った。  おじいさんのもとには、毎日死者が運ばれてきた。  おじいさんは毎日いくつもの墓を掘り、死者を埋め、ベルの木を植えた。  ベルの木は増えて、ベルの森になった。  ある日、50年経って実をつけたベルが鳴った。  おじいさんがこの仕事を始めたときに、最初に植えたものだった。  今までおじいさんはいくつものベルを聞いてきたが、生前の姿を知っているものは初めてだった。  それは半島から半島へと旅をする吟遊詩人のものだった。  その人は、いつも弾むような声で、人生の悲しみを歌っていた。  旅の果てにおじいさんのもとへとたどり着き、そこで最後の歌を歌って死んだ。  50年後に聞くベルの音は、最後に聞いた歌と同じように、朝日に向かってさえずる小鳥が、愛する人との別れを歌った歌に聞こえた。  やがて戦争が終わった。  おじいさんはベルの森で孫娘の帰りを待ち続けた。  だが、いつまで待っても娘は戻ってこなかった。  自分の命が尽きかけていることを知ったおじいさんは、最後の力を振り絞り、ベルの森の奥深くに孫娘の墓を掘った。  墓に入れる死体のないままに。  空っぽの墓の上にベルの木を植えた。  ちょうど孫娘の背丈と同じぐらいの、小さな細い木だった。  最後の仕事を完成させると、おじいさんはその木にすがるようにして、息を引き取った。  おじいさんが死んだあと、新しいベルの木を植えるものはいなかった。  森はおじいさんの体を栄養にして、大きく、大きく広がっていった。  そして50年が経った。  空っぽの孫娘の墓に植えられた木は大きくなり、ベルの実をつけた。  だが、その実は鳴らなかった。  実はしばらくついていたが、やがて自らの重みに耐えかね、地に落ちた。  おじいさんが眠っている場所に。  ベルは朽ち果て、地の栄養となった。  地下に住む分解者たちが集まり、滅多にないご馳走に歓喜した。  分解者は数を増やし、今度はそれを捕食する昆虫を栄えさせた。  昆虫が増えると、それを食べる鳥が集まり、鳥は糞を落とした。  糞に混ざっていた植物の種が芽を出して、そこに根付いた。  それから長い年月が経った。  先の戦争の記憶を人々が完全に忘れてしまうほどに、長い長い年月だった。  最後のベルの木はとうに枯れ、ベルの森は様々な生命が共存する、巨大な森となっていた。  人というのは、自然が成長するスピードより、ずっと遅く成長するものだ。  木の長い一生であっても、ミミズの短い一生であっても、自然は、その一つの生だけで、学ぶべきことをすべて学んでしまう。  だが人間だけは、一つの人生だけで学び尽くしてしまうことは決してない。  過ちは繰り返され、再び戦争が始まった。  今度の戦争は、先のものとは比べ物にならないほど規模が大きく、激しく残酷なものだった。  新しい爆弾が落とされ、大地は炎に包まれた。  森の上にも、すべてを焼き尽くす悪魔の爆弾が落とされ、あれほど大きく育っていた森は、一瞬にして塵と化した。  森は焼野原となった。  その土地には、未来永劫、生物は住めないと思われた。  人々はその地を諦め、去っていった。  もとはベルの森があったところは、誰も立ち入ることがなく、地図にも載らない地域となっていた。  だが、人知れず生命は胎動していた。  長い長い、長い年月が過ぎ、一つの歴史に収まらないほどの果てしない時間が流れ、生命が戻ってきた。  存在を知られぬ微生物たちが、地下を耕し、緑の葉を持つ植物が地上に顔を出した。  植物の間を小さな生き物が駆け巡り、恋の歌を歌った。  それは植物を食べ、やがて死骸となり、また、植物の体となった。  雨が降り、大地を浄化し、風が土を運んできた。  いくつもの雷が落ち、土地に電気を授けた。  やがて森は再生した。  種々雑多な生命を育む、深い、深い森となって。  ベルの森はとうの昔に歴史の彼方に消え去ったが、新しい生命が誕生していた。  長い間、人が入らなかったおかげで、いつのまにか森は生き物たちの楽園となっていた。  その森に、とうとう人間がやってくるときがきた。  豊かな森林資源に目をつけた人間は、森を伐採し、住む場所を得るために戻ってきた。  彼らにとっては、自然とは利用するものであり、利用できるものとは、人間の役に立つものであった。  開発するにあたって、調査隊が森を訪れた。  調査隊のリーダーは、若い女性の科学者だった。  その顔には、墓守りのおじいさんの面影があった。  女は森の前に立つと、不思議と懐かしさを覚えた。  女はそれを、遠い昔に人類が森に住んでいた頃の記憶を思い出すからだと思った。  調査隊の調査によると、この森は質の高い木材と、肥沃な土壌でできていることがわかった。  計算すると、森の木をすべて使えば、一億人の住居を作ることができ、10億人に紙を梳くことができ、木を切ったあとの土地は、百億人の胃袋を満たす畑にすることが可能だった。  女は森を利用することに決めた。  それが功利計算上、快楽計算上において、明白に優れた結論であったからだ。  森を伐採する計画が実行されようとしたまさにそのとき、強い風が吹き、木がそよいだ。  木の葉が擦れるザワザワという音の中に、女は聞いた。  微かに響く、ベルの音を。  森のどこかで、一つのベルが鳴っていた。  ベルの木など、もうどこにもないというのに。  一つのベルが鳴ると、その音に共鳴して、いくつものベルが鳴った。  その一つ一つが、全て個性を持った、違う音だった。  音は大きく広がり、巨大なハーモニーを奏でた。  ハーモニーが生まれると、一つ一つの響きは個性を失い、一つの音になった。  女はその音に聞き覚えがあった。  これはどこかで聞いたことがある。  これは遠い昔の記憶、言葉にならない言葉を話していた頃。  いや、もっと前。  母の胎内にいたときに聞こえた音。  いや、そうじゃない。  それよりも、もっとずっと前の記憶。  これは、太陽が沈まないときの音。  夜が明けないときの音。  炎が燃えないときの音。  水が流れを失った音。  闇が明るく輝くときの音。  秩序と混沌が分かれる前の音。  そうだ。  これは、原始の地球が聞いた音。 「開発は中止する」  女はいった。 「この森は、死者が奏でる森よ」  女は去っていった。  森は風にそよぎ、ベルは鳴った。  死者は滅び、そして響いた。  人類はまだ学んでいない。  ベルは鳴り続けるだろう。
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