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あのね、あれはティアがいなくなったときのことだったの。
ティアっていうのは、犬の名前だよ。
わたしより先にこの家に来てね、いつも一緒に遊んでたんだ。
ママがいうにはね、ティアはまだ漢字も書けないのに、すっごくおじいちゃんなんだって。
わたしは書けるよ。
沢田柚香ってね。
沢の字は、本当はもっと難しい字なんだけど、普段はこれでもいいんだって。
小学校に上がったら、書けるようになるのかな?
ある朝ね、ティアはずっと寝てたんだ。
いつも寝てるときが多いから、そのときは、ティアったらまだ寝てるって思ってたんだけど、幼稚園から帰ってきたら、もうどこにもいなくなっちゃってたんだ。
ママに聞いたらね、ティアはお空の上の、犬ばかりが住む国に行っちゃったんだって。
ティアは元々そこからやって来て、わたしの家でお泊りしてたんだけど、時間が経ったから、帰っていったんだって。
ひどいよ、ティア。
さよならも言わずに行っちゃうなんて。
それで、わたしはね、お空の上を見上げて、その犬ばかりの国を探したの。
ティアがひょこっと顔を出すかもしれないでしょ。
でもね、どこを探しても、ティアは見つからなかったんだ。
ママはね、もうティアは帰ってこないっていうのよ。
犬の国から人間の国に行けるのは、一回きりなんだって。
悲しいな。もうティアに会えないの?
そしたらね、びっくりしちゃった。
だって、お空の上から、魔法の絵の具が落ちてきたんだもん。
ポタポタポタって。
ポタポタポタって落ちてきて、わたしの顔も服も、魔法の絵の具でびっしょびしょになったのよ。
わたしね、すぐにわかったよ。
これはティアからの贈り物だって。
わたしがあんまり悲しむものだから、ティアがお空の上から贈ってくれたんだって。
だからね、わたし、その魔法の絵の具を使って、絵を描いたんだ。
ティアの絵だよ。
だって、絵の具って、絵を描くものでしょ?
最初はね、寝てるティアの絵を描いたんだ。
ティアはいつも寝てたからね。
でも、ティアの目も描きたかったから、他の絵も描いたよ。
ティアの目って、まん丸でどんぐりみたいな色してるんだ。
ママはティアの目には人が映らないって言ってたけど、わたしは知ってるよ。
ティアの目にわたしが映っていたこと。
だから、ちゃんとティアの目の中にわたしを描いたよ。
ねえティア、お犬の国に行ってもわたしのこと忘れちゃだめだよ。
ティアとボールを追いかけっこしたときの絵。
湿った鼻をくっつけられて、冷やっとしたときの絵。
手のひらをペロペロ舐められて、くすぐったかったときの絵。
ティアの耳の先に鼻をつけて、いいにおいを嗅いだときの絵。
魔法の絵の具はいっぱいあったから、ティアとの思い出をいっぱいいっぱい絵にしたんだよ。
それを全部お部屋に飾っておいたの。
魔法の絵の具がまだ乾かなかったから。
そのときわたしね、自分がすごくいい絵描きさんだってことに気づいちゃったんだ。
お絵描きはね、ときどきすることもあったの。
ママは、柚香はお絵描きが上手ねって言うけれど、今まではちょびっとだよ。
このときまでは、そんなにいっぱい描いたことなかったよ。
それで、その日から、魔法の絵の具を使って、いろんなものの絵を描いたんだ。
魔法の絵の具ってね、不思議なの。
いつもは見えないんだけど、わたしが必要なときには、すぐに出てきてくれるんだ。
ちょびっとのときもあれば、たくさん出るときもあるけど、出た分だけ絵を描くの。
運動会のかけっこで転んで膝小僧を擦りむいたときはね、ちょびっとしか出なかったんだけど、あとで家に帰ってから、悔しくていっぱいお絵描きしちゃった。
でも絵の具はすぐに乾いたよ。
男の子に給食のプリンを取られちゃったときは、ドバーッて出たけど、すぐに絵の具はなくなって、小さい絵しか描けなかった。
仲良しの陽菜ちゃんが半分こしてくれたからね。
でも陽菜ちゃんがわたしと遊ばずに、他の子と遊んでわたしを仲間に入れてくれなかったときは、ちょびっとずつだけど、あとからあとから絵の具が出てきて、なかなか止まらなかった。
あのときはね、しばらく一人でお絵描きしてたんだ。
でも、大丈夫だよ。
わたしには、ティアが残してくれた魔法の絵の具があるからね。
このときもすぐに芽衣ちゃんがやって来てね、どうしてお絵描きしているのって聞くから、芽衣ちゃんにティアのことをいっぱい話したんだよ。
芽衣ちゃんのおうちには犬の国から誰も来ていないから、羨ましがられちゃった。
そのうちに絵の具もすっかり乾いちゃったんだ。
ママは、あんまりお絵描きしてると小学校に上がれませんよ、なんて言うんだけど、わたしは大丈夫だと思うな。
だって、魔法の絵の具はいっぱいあるし、わたしはお絵描きが得意だもん。
この間なんかね、お弁当を持っていくのを忘れちゃって、とってもおっきな絵を描いたんだよ。
でもね、そういう絵は、すぐに乾いちゃうの。
膝小僧を擦りむいた絵も、プリンを取られた絵も、仲間はずれにされた絵も、みんなみんな、すぐに乾いちゃったよ。
魔法の絵の具ってすごいね。
でもね、ティアの絵はね、なかなか乾かないんだ。
だからね、その絵はいつまでもお部屋に飾ってあるの。
この絵もいつか乾くのかな。
このままずっと乾かないでいてほしいな。
けれど最近、ティアの絵が乾いてきてる気がするの。
前はもっと湿ってたのに。
ティアの鼻みたいに湿ってたんだよ。
それがだんだん、だんだん、乾いてきてるの。
わたしまだ、難しい沢の字が書けないよ。
なんでこんなに早く乾いちゃうのかな?
もっとティアの絵を描こうと思って、魔法の絵の具を出そうとするんだけど、絵の具もなかなか出てこなくなっちゃってて。
ねえティア、もっと魔法の絵の具をちょうだいよ。
わたしはお空を見上げることが多くなっていったんだ。
そんなある日ね、幼稚園から帰ってきたら、新しいティアがいたの。
ううん、ティアにそっくりだけど、ティアよりずっと小さい。
それに、ティアはおじいちゃんだったけど、この子は赤ちゃんなの。
それに、女の子なんだ。
この子はね、ポエミィっていうんだって。
ポエミィは、ティアが人間の国に来れなくなったから、代わりに来てくれたんだって。
ポエミィもしばらくお泊りしたら、お空の上に帰っちゃうのって、ママに聞いたら、やっぱりそうなんだって。
でもずっと先。
わたしが大人になるころまでは家にいる予定なんだってさ。
でも、どうしても用事があるときには、それより早く帰らなきゃいけないんだって。
ママは柚香もちゃんとそのことはわかってねって言うんだけど、大丈夫だよ。
わたしわかっちゃったんだもん。
ポエミィが魔法の絵の具をたくさん持ってきてくれたってこと。
ほら、今でもあふれそうなぐらいに。
ポエミィ、こんにちは。
いつかお空に帰るときまで、ゆっくりしていってね。
わたし、お絵描きが上手だから、どれだけ思い出作っても大丈夫だよ。
だからいっぱいいっぱい思い出作って、いっぱいいっぱい笑わせて、ね。
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