初仕事

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初仕事

 「来たか、新人くん。」  その男は気怠そうに建物の壁にもたれかかり、私を待っていた。両目を覆う長い前髪、皺だらけの服、薄汚れたブーツ、荷物の入れ過ぎで変形した鞄、そして猫背。とても身だしなみに気を付けているとは思えない出立ちのその男は、迷いの森の主のといった風の不思議な雰囲気を持っていた。  召喚士試験に合格してから1週間ほど経ったある日のこと。召喚士連合組合という組織から大きな荷物が届いた。召喚士連合組合とは、召喚士試験の運営を始め、所属する召喚士の人材管理、労働管理、召喚依頼の窓口など全般を担う組織だ。荷物の中には支給品の衣類や魔道具と共に1通の書面が入っていた。 『この度は合格おめでとう。早速で恐縮だが、ご存知の通りこの業界は人手不足が深刻で、召喚士たちは多忙を極め疲弊している者もいる。君には早く仕事に慣れ、独り立ちしていただきたい。そこでまずは半年間、先輩召喚士の助手という形で新人研修を受けていただこう。心配せずとも研修期間中も報酬は支払う。まずは4月2日の朝6時に、チェントロ東駅前広場へ向かってほしい。ヴェント・リンフレスカンテという男が待っている。何かあれば、同梱の連絡用薄型水晶を使って登録してある彼の連絡先まで連絡してみてくれ。それでは、これからよろしく頼む。』  書面に記されていた指定の時刻に指定された場所に向かったところ、彼が待っていたという訳だ。朝も早いせいか広場には他に誰もいなかったし、私に話しかけてきた彼が先輩召喚士のヴェント・リンフレスカンテであるということは間違いない。  「あ、よろしくお願…」  「はい、これね。」  彼は私が挨拶を言い終わらないうちに、変形した鞄の中に片手を突っ込むと、ガサッと何かを取り出してこちらへ差し出した。少し分厚めの冊子と、皺くちゃになった1枚の紙だ。    「移動時間で読んどいてね。…あ、知ってると思うけど俺はヴェント。よろしく。」  そう言うと彼は、駅の中に向かってゆっくりと歩き出した。すると私を横切った瞬間に、木苺のような甘酸っぱい華やかな匂いがふわっと漂った。あの出立ちの男からはけして漂って来ないであろうその匂いに、私は思わずハッとしてしまった。この匂いの正体は香水なのか、服を洗った石鹸なのか、はたまた魔術の一種なのか…不覚にもそんなことに思いを巡らせ、ほんの一瞬放心してしまった。いけない、私も彼に付いて行かなければ。そう思い駅の方を向くと、歩を進める彼に異変が起きていた。踏み出す一歩一歩の歩幅、方向、タイミングの全てが次第にばらばらで、どう見ても真っ直ぐには進んでいないのだ。途中で街灯にぶつかりそうになり、「おっと」と言うと、同じ足取りでまた歩き出す。これは俗に言う千鳥足というやつだ。これから仕事に向かおうという人間がまさかとは思うが…。いや、世間にはこういう歩き方をする人もいるのかもしれない。それに、ひょっとしたら病気や怪我が原因で上手く歩くことができないという可能性だってある。何にせよ出会ってからまだ5分も経っていないのだから、もう少し様子を見るべきだ。とりあえず駅の方へは進むことができているので、私は何も言わず彼の後ろを歩いた。  そのまま歩き、なんとか切符切りの駅員の前まで辿り着いた。彼は手を突っ込んだままになっているズボンのポケットの中から、くっきりと折り目のついた紙きれを取り出した。そして、重なっていた1枚を「ん」と私に差し出した。それは、ここチェントロ東駅とモンテノ駅間の往復切符だった。なるほど、今回の仕事先はモンテノのようだ。  モンテノはチェントロから列車で2時間ほどの場所に位置する、小さめの地方都市だ。緑の木々に覆われた山々、流れる川の水は川底まではっきりと見える程青く透き通り、四季折々の景色はまるで絵画のように美しく地上の楽園とも言われている。また、その豊かな自然を活かした農業が大変盛んであり、中でも葡萄の生産に関しては国内随一である。同時に葡萄酒の産地としても名高く、モンテノ産の葡萄酒はどれも国内外を通じて最高ランクに格付けされるほど高品質だ。私自身何年か前に旅行で訪れたことがあるが、モンテノ駅に近づくと列車の窓から見えてくる雄大な葡萄畑の景色が、息を呑むほど美しかったことをよく覚えている。それに加えて葡萄酒はもちろん、新鮮な野菜や果実をふんだんに使って振る舞われる料理はどれも頬が落ちるほど美味で、まさに地上の楽園というに相応しい場所であった。  そんなモンテノに初仕事で行くことができるだなんて、私は運が良いのかもしれない。ふらふらと前を歩く彼に若干の不安はあるものの、あの甘酸っぱい匂いに振り回されるのもきっと悪くない。何にせよ私の召喚士人生はこの仕事から始まるのだと思うと、抑えることができないくらいに胸は高鳴っていた。  列車には私たち以外にほとんど誰も乗っておらず、車内はとても静かだった。モンテノへ向かう唯一の直通列車であるこの列車は常に観光客で満員だろうと思っていたが、この時間はそうでもないようだ。  座席に着くなり、彼は鞄の中から1本の瓶を取り出した。既に一度空けている様子の緩く閉まった栓を引っこ抜くと、中の液体を一口飲んで「くはーっ」と言い満足気に微笑んでいる。声を上げるほど美味しそうに飲むなんて、よっぽど喉が乾いていたのだろうか。しかし、その声がそんな理由で発せられたのではなかったことはすぐに分かった。彼がにたっとしながら眺めている瓶のラベルをよくよく見ると、金色の文字で『パルール』と書かれていた。これは…。  「ねぇ新人くん、これ知ってる?」  「あぁ……はい、葡萄酒ですよね。モンテノ産の。」  「そうそう、正解。組合長がね、この依頼受けたら飲み代とお土産代は全部経費で落としていいって言うから、きみと会う前に買っちゃったんだよねぇ。」  薄々気づいていた、というよりは正直なところ見て見ぬ振りをしていたが、この人はこれから仕事に向かうという時に酒を飲んでいる。いかにも面倒事が嫌いそうな彼に新人研修付き依頼のオファーが行った事情は知る由もないが、引き受けた理由は間違いなくこれであろう。  「まぁ、きみの新人教育もセットとは知らなかったけど、、なんかきみ優秀みたいだし、俺の役目、、そんな大したものじゃ、、いやとにかくねぇきみもこれ飲んでみ、、あぇ、おれ何言って、、」  「ヴェント…さん?」  「着いたら起こしてぇ…」  そう言い残し、彼は夢の中へと旅立ってしまった。瓶の中の葡萄酒の減り具合と広場から列車に乗るまでのあの足取りを見るに、彼はあまり酒に強くはないようだ。そして、私の横を通り過ぎた時に香ったあの木苺のような甘酸っぱい匂いの正体は、間違いなくこのパルールだ。歳上の異性から漂うその匂いに、一瞬でもときめいてしまった自分が心底情け無い。穴があったら入りたい。  そして、列車に乗る前のあの胸の高鳴りは、果たしてこの人と共に初仕事を完遂することができるのかという不安から生じる動悸へと変容した。それにこれから半年間この人の助手として働かなければならないのか思うと、途轍もなく大きな絶望の渦に呑まれそうになる。しかし私は、ストレーガ魔術医院を訪れたあの日から、どんな状況であろうと希望を捨てずに生きていこうと心に決めている。それに、実際に召喚士としての彼をまだ見ていないので、ここでダメ人間と決めつけるのは時期尚早だ。その確信を持つ日が訪れるまで、彼のことは先輩として敬おう。  パルールの瓶を大切そうに抱えながら幸せそうな顔で眠っている先輩を起こさぬよう、私は朝日が差し込む窓のカーテンをピタッと閉めた。  気を取り直し、到着までの時間で渡された冊子と紙に目を通しておくことにした。  冊子は「召喚士 手引書」というもので、召喚士の仕事のマニュアルのような内容であった。基本的に、召喚の依頼は全て一度召喚士連合組合に集められる。そこで、各召喚士の技量や得意分野を考慮した上で依頼が振り分けられる。ただし、その依頼に相応しいと判断された召喚士が別件で対応不可の場合は手の空いている者に回される。一つの依頼を終えたら、報告書の提出義務がある。それで以って依頼は完了、報酬が支払われる。大まかにはこのような内容であった。  そして皺くちゃの紙の方は、今日の仕事の依頼書のようだ。依頼者はモンテノ自然農産組合「パルール」。依頼内容は自然系精霊の召喚および自然の活性化。この依頼に対し、私は少しの疑問と違和感を抱いた。まず自然に恵まれている土地には、土、水、木等自然系の精霊が多く棲みついており、それだけ精霊たちによる加護も強いと言われている。モンテノほどの自然に恵まれた土地であれば、わざわざ召喚士が赴いて精霊を召喚するまでもないような気もするが、何か理由があるのだろうか。それに、自然を活性化させるという目的に対し、何故いきなり精霊の召喚という話になるのだろうか。自然を操る力を持つ魔導士にどうにかしてもらうとか、他の方法も沢山あるのではないか…。考えを巡らせているうちに、列車の心地よい振動と静けさに包まれて、私もいつのまにか夢の中へ旅立ってしまっていた。  …俺を呼べ!!早く!!!  あの声がした。いつものように頭の中で反響するというよりは、まるで耳元で叫ばれているようにはっきりと大きく聞こえ、「うわぁっ!」という叫びと共に私は驚いて飛び起きた。  時計を見ると、チェントロ東駅を出発してから1時間40分ほど経過している。そろそろモンテノに到着する時間だ。窓のカーテンを開ければきっと、あの雄大な葡萄畑の景色が見えているはずだ。期待に胸を膨らませながらカーテンをサッと開ける。しかし…  「え……。」  カーテンを開けて見えてきた景色に、私は呆然としてしまった。そこにあったのは、一面の枯れ果てた葡萄畑と、枯れ木に覆われた山の斜面。鉄橋の下を流れていたはずの川は干からび、底の地面がひび割れてしまっている。そこはまるで全てのものが生気を奪われたかのような、色の無い『死』の世界だ。その風景にはもう、地上の楽園の面影は微塵も無かった。  「これは…。」  「なるほどね。」  「うわっ、先輩!」  先輩はいつのまにが目を覚ましていた。長すぎる前髪の隙間から覗く翡翠色の眼が、窓の外の景色をじっと見つめている。  「きみも思ったでしょ、なんで自然に恵まれて精霊の加護が強いはずのモンテノから、わざわざあんな依頼が来たのか。」  「はい…この状況がまさに、その理由ということですね。」  「そう…。これはいきなり、ちょっと大変な仕事になるかもね。」  先輩はそう言って、少しだけ笑った。
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