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15. 都合のいい現実
ガサガサ、と将吾の耳に物音が聞こえた気がした。意識がゆっくり浮上する。そしてそれと共に、部屋の中に人の気配がある。よほど深く眠っていたのか、体がなかなかいうことを聞いてくれない。
「ん……」
ようやく、目蓋を開けることができた。ぱちぱちと瞬きを繰り返すうちに、次第に焦点が定まってくる。
「目が覚めたか」
聞き慣れた声。
「え、東……堂?」
事態がすぐに飲み込めない。なぜ自分の部屋に東堂がいるのか。
——そもそも、今、何時だ……
枕元の携帯を確認しようとして、画面に表示された着信履歴に気づく。
「あ……わり、電話、くれてたのか」
時刻は正午すぎを指していた。たっぷり4時間は寝た計算だ。着信に気づかないほどの熟睡など、何ヶ月ぶりだろうか。まだ体の感覚はすっかり正常とは言えなそうだが、熱っぽさはだいぶマシになっている。
「ああ。キャップから、お前がダウンしたと連絡があったから」
それを聞いて、ようやく将吾の頭にも現実が少しずつ戻ってきた。同時に、猛烈に心臓が暴れ始める。寝る前に、自分は一体何を想像していた? 手を伸ばせば届く位置に、あれほどまでに頭の中で思い描いたその人が立っている。
——俺は、何を。
自分の中の何かが、昨日までとはっきり変わってしまったことを、将吾はややクリアになってきた頭で理解しつつあった。そこに東堂がいる、それだけで、否応なしに体温が2度くらい上がるような気がする。東堂の声が、気配が、将吾の細胞を一つ残らず侵食していくようだ。それは熱のせい、だけではなさそうだった。
東堂が自分にいろんな感情を見せるようになったこと。仕事を認めてくれたこと。触れても、拒まなかったこと。そして、キャップから自分が体調を崩したと聞いた、それだけで、ここまできてくれたこと。……それぞれは些細な出来事を重ねていったとき、浮かぶのは、一つの可能性。
都合のいい妄想で、終わってほしくなかった。
自分がどうしたいのか分からない、でも東堂に対するなにか、飢えのような感覚。何かが壊れてしまうんじゃないかという恐怖は次第にかすんで、その欲求に正直になりたい気持ちが勝ってくる。
頭がまとまらなくて、心臓がうるさくて、吐く息が熱い。
そんな将吾に、東堂が何を勘違いしたのか、手に持った袋を突き出した。
「何か食えそうか。キャップにはただの疲労だと言ったみたいだが」
差し出されたビニール袋の中を見ると、ゼリー飲料、スポーツドリンク、栄養ドリンク、と寝込んだ時の定番がぎっしり詰まっている。これらを東堂が自分のことを考えながら選んでくれたのだと思うと、心がじわっと熱くなった。
「いいのか? こんなに。てか、お前も参ってるって、キャップが言ってたけど、大丈夫なのか? お前んちからここ、結構遠いだろ」
言いながら将吾は、東堂がどうやってここに来られたのか、ようやく疑問に思った。お互いの住んでいる場所なんて話題になったこともない。東堂と共に取材から直帰する時、かなり早い段階で違う路線に乗り換えていたから、近所ではないだろうなと思っていた程度だ。
「俺はそんな大したことなかったからな。食べて寝ればなんとでもなる。あと、お前の家はキャップに聞いた」
将吾の疑問を読み取ったように、東堂が付け加えた。普通は個人情報だからそう簡単に教えるものではないが、小野に連絡がつかない、と話したら住所を教えてくれたのだという。
「お前に何かあったら面倒だからだ。勘違いするな」
口調はぶっきらぼうでも、その目は感情に揺れているのが隠せていない。たぶん、かなり心配してくれたのだ。キャップにわざわざ聞いてまで、家に様子を見にくるほどに。将吾はたまらない気持ちになった。
「食えそうにないなら、水分だけでもとっておけ」
袋を抱えたまま動かない将吾にしびれをきらしたらしい東堂は、そう言うとスポーツドリンクのペットボトルを袋から引き抜いた。それを将吾の胸に乱暴に押し付けて、残りをまとめて持ち上げる。それをどうするのかと将吾が見ていると、東堂はスタスタとキッチンの方へ歩いて行き、冷蔵庫を開けてしゃがみ込んだ。
——……う、わあ……
東堂が、買ってきたものを丁寧に冷蔵庫にしまっている。甲斐甲斐しいにもほどがないだろうか。これがあの嫌味男と同一人物で合っているのか。あまりに信じられない出来事が連続しすぎて、将吾は自分の頬をつねった。
——普通に痛い。あと髭生えてんな……
夢でも痛いと思うことはあるかもしれないが、さすがに不精髭はリアリティがありすぎる。どうやら、これは現実と見ていいようだ。
こんな自分に都合のいい現実があるもんなんだな……と思いながら、将吾はまだ半ば夢心地のまま東堂の背中を見つめる。と、背中に注がれる視線を感じたらしい東堂が将吾の方を振り向いて、ぎょっとした顔をした。
「何だ、そんなにやにやして。何がおかしい。気色悪い顔で見るな!」
ひどい言いようだが、そんな罵倒すら今の将吾には春のそよ風のようにしか感じられない。本気で言っているのではないのが、その顔つきから分かるからだ。そんな顔を見せられたら、もう、居ても立っても居られない。
考える前に、体が動いていた。
いきなりベッドから降りて自分の方へ向かってくる将吾に、東堂は訝しげな顔になり、手を止める。将吾は東堂の手から栄養ドリンクの瓶をひょいと取り上げると、適当なスペースに放り込んで冷蔵庫の扉を閉め、しゃがみ込んで東堂の顔を正面から見つめた。
「なん……」
東堂の言葉が終わる前に、将吾は身を乗り出して片手を持ち上げ、そっと東堂の頬に触れる。
「っ……」
小さく息を飲んで目を見開いた東堂だが、将吾の手を振り払うことも、顔を背けることもしなかった。ただ、伏せた目の横、将吾の指が触れている頬が、耳が、じわじわと熱くなっていく。指先から伝わる東堂の肌の熱に、将吾は胸がいっぱいになる。
「やっぱり」
ため息をつくような声で、将吾は言った。こんな触れ方、ただの同僚ならしない。体格的にも今の体勢的にも、将吾がその気になれば東堂をこの場で押さえ込むことができる。そう分かっていて、東堂は拒絶していない。こんな東堂は、自分しか知らないのだ。心臓がめちゃめちゃに脈打っている。
「……何、が」
東堂も将吾につられたのか、小さく聞き返す。そのささやくようなトーンがまた、将吾の胸をかき乱した。
「俺のこと、こうして触っても、振り払ったりしてない。昨日の夜も、立ちくらみ起こしたお前を咄嗟に抱きかかえたけど、俺のことを突き飛ばさなかった。気づいてなかったか?」
——東堂くんは男性に腕を掴まれるとか、要は暴行を連想させるようなことをされるのがダメになっちゃったみたいなのよ。
将吾に給湯室で事情を教えてくれた女性社員の声が蘇る。あの時の若手社員は東堂の腕を掴んで突き飛ばされたのだと言っていた。それがだめなら、昨日の将吾の行動も、今こうして東堂を囲い込むようにして触れているのも、当然アウトなはず。そうはなっていない、ということが意味するもの。込み上げるものを逃すように、将吾は熱いため息を吐いた。
東堂は指摘されて初めて気づいたように、目が泳いでいる。将吾の言ったことが示すものを受け止めきれていないのが、表情から丸わかりだ。口を開けたり閉じたりしているが、言葉は出てこない。それでも、湯気が出そうなほど真っ赤な顔が、東堂の心の中を十分物語っていた。
——っ、こんなの、反則だろ……
囲い込んだ腕の中で茹で蛸のようになって狼狽えている東堂を、可愛いと思ってしまう自分がいる。あんなに冷徹で、完璧で、孤高の存在だった東堂が。もう、将吾の中にまともに物事を考える余裕なんてとっくに無くなっていた。
気持ちの昂るまま、将吾はもう片方の手も東堂の頬に添える。そして祈るような気持ちで、東堂に言った。
「それは、こういうことって思って、いいか」
今から自分がしようとしていることへの緊張で、声が少し震えているのが自分でわかる。
「嫌だったら、殴ってでも止めろよ」
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