16. 甘やかな余裕

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16. 甘やかな余裕

 将吾はそっと顔を寄せて、東堂の唇に自分のそれを重ねた。東堂のそこは少し乾いていて、驚くほど柔らかい。東堂は抵抗しなかった。将吾はそのまま2度、3度と少しずつ角度を変えて、啄むように味わう。サラサラとした髪の毛の間に指を通し、頭を後ろから手で包み込むようにして支えると、東堂の体から力が抜けるのが分かった。全ての音が遠ざかり、自分の鼓動だけがうるさく響く。  気が済むまで貪りたかったが、さすがに状況を考えて理性が邪魔をする。チュッと音を立てて、少し名残惜しく感じながら、将吾は一旦唇を離した。ぽーっとした顔の東堂と目が合うと、途端に東堂の目に意識が戻ってくる。みるみる再び顔を真っ赤にした東堂が、将吾の肩を掴んで引き剥がした。 「なっ……お、……!」  口から言葉にならない呻き声を上げるなり、東堂は将吾の腕を鷲掴んで立ち上がり、ずんずんベッドへ向かって歩き出す。引きずられるようにして後をついていった将吾は、東堂によってベッドの上へ放り投げられた。 「いっ……てぇ……」  馬鹿力で投げ飛ばされた衝撃で、一瞬息が詰まる。だが、見上げた東堂の顔には嫌悪感や拒絶の色はなく、代わりに少しやりすぎたか、という気遣わしげな表情がちらついていた。それに将吾はほっとすると共に、自分を受け入れてくれた東堂への感情が溢れて止まらない。おそらく自分は今、最高にだらしない顔をしているだろう。 「っ、病人は大人しく寝てろ! まだお前にやってもらうことは山ほどあるんだ。これ以上俺の仕事を増やしたら殺すからな!」  だいぶ物騒な台詞を投げつけ、東堂は将吾をぎゅうぎゅうと布団の中に押し込むと顔の上まで掛け布団を被せた。そのまま足音も荒く部屋を出ていく音がする。  掛け布団をまくって、ぷは、と顔を出した将吾は、東堂の言葉を反芻して笑った。  ——キスしたことは、怒らねえんだ……  それどころか、東堂の発言はこれからも変わらず将吾と組んで仕事をすることが前提になっていて。受け入れてもらえる確率は五分五分、顔を合わせるのが気まずくてペアを解消されるくらいは覚悟していた将吾は、舞い上がりそうな心地だった。  翌朝。  あの後丸一日寝て過ごした将吾は無事完全復活し、英京新聞社報道部フロアで、理事長の会見に出席した東堂と打ち合わせをしていた。  東堂は結局将吾の家に寄った後、そのまま出社して会見にも出席したのだという。そのおかげで会見に関する記事も東堂が担当し、他所の班に迷惑をかけずに済んだ。と言っても昨晩、会見が気になってしまった将吾は、結局自宅で会見の中継と英京デジタルの記事を見ていたので、おおよそは把握していたのだが。 「なるほどなぁ……」  将吾が書いた昨日の英京の朝刊一面記事と相まって、会見はこの事件の決定打と言っていい一大インパクトを与えていた。理事長は会見で、総理と非公式な会合を持っていたことを事実として認めた。それが文科省が再調査の結果の公表を渋っていたことへの世論のストレスに、起爆剤のように作用したのだ。状況証拠は揃った形になり、あとは警察による捜査と逮捕、起訴が行われるだろう。報道機関としての責務は、その一部始終を最後まで追うことだ。  報道部4年目で初めて追った大きなヤマ。その転換点に自分がいることが感慨深い。だが、将吾はふと目の前に座る東堂の様子が気になった。どことなく、緊張した面持ちで、じっと取材メモに目を落としている。昨日の余韻などとっくにどこかへ行ってしまったようで、将吾は場違いを承知ながら少し残念な気持ちになった。  ——っ、そうか……!  その時、将吾はハッと気づく。この事件は、3年前に東堂が追っていた事件とよく似ている。学校法人に関する政治家の汚職、記録の改ざん。そして、その事件で東堂が揺らぐ原因になった、関係者の死。  今回も、誰かが犠牲になるんじゃないか。東堂はそれを恐れているのだろうと将吾は感じた。  ——よし。そういうことなら。  自分が取るべき行動はすぐに分かった。 「一旦、コーヒーでも飲まねえか? 昨日のこともあるし、俺の奢りだ」  努めて明るい口調で、将吾は東堂にそう言った。「昨日のこと」と聞いて、会見への出席と記事を任せてしまったことか、それとも将吾の家で起きた出来事のどちらを東堂が想像するだろう、という密かな楽しみも、そこに忍ばせる。立ち上がりしなに盗み見た東堂の目元がさっと赤く染まるのを見届け、将吾は今にも駆け出したい気持ちを抑えて何食わぬ顔で歩き出した。  タイミングよく、休憩室は無人だった。ガコン、と自販機の取り出し口に落ちてきたコーヒーの缶を拾い上げ、東堂に渡す。目は合わせない割に素直に受け取る東堂が、今すぐこの腕の中に捕まえてしまいたいほどに可愛いと思ってしまう。  ——しかしなあ……どっからどう見ても男、なんだけどなあ。  拗ねたように黙々と缶を開けて口をつける東堂を見ながら、将吾は今更な感想を反芻する。  今朝起きた時、将吾は正直、自分の気持ちが自分でわからなくなっていた。自分のしたことを後悔してはいないし、嫌悪感もない。だが、あまりに前後を考えずに一線を踏み越えてしまった。今日、どんな顔で東堂に会えばいいのか。出ていく時の東堂の態度には自分を拒絶する素振りはなかったけれど、あのあと仕事に戻り、一晩寝て、変わっているかもしれない。そう思うと、少しだけ怖くなった。  しかしその少しの不安は、出社して東堂の顔を見るなり、吹き飛んでしまった。東堂が自分を見る目にも、自分と同じ戸惑いと恐れがあるのが分かったから。  その手をとって、問題ない、怖がることはないと伝えたい。東堂が話してくれたことから推測するに、男としては何人目か、下手すると両手ではきかない数かもしれないが、きっとこんな関係は初めてなのだろう。そんな東堂が、素顔を晒せる相手でありたい。将吾の胸に、すとん、と答えが落ちてきた。  ——こんなに初々しいとか、反則だろ……  打算でしか他人と関わることができなかった東堂が、初めて心で繋がろうとしてくれている。そこにある迷いも怯えも、全部包み込みたい。男だとかそういうことは、その気持ちの前にはほんの些細なことでしかないのが、将吾には妙に冷静に理解できていた。  だって、今すぐその体を抱き寄せて、腕の中に収めてしまいたい。物理的に触れることで、不安があるのなら少しでも和らげたい。何より将吾自身、一度知ってしまった体温を、もう恋しく思っているのだ。東堂という存在そのものが、将吾にとって意味を持っている。  今すぐに、全部委ねて欲しいとは思わない。少しずつ、時間を重ねて、つながりを強くして。この先また揺らいだとしても、こいつがいるから大丈夫だと思ってもらえたら、それでいい。 「……大丈夫だ」  何からどう話そうか、と悩んだ挙句、こんな切り出し方になってしまった。将吾は次に言うべき言葉を探しながら、自分の分の缶コーヒーの縁を指の腹で撫でる。 「……何が」  何が、と聞き返してはいるが、東堂は将吾が言わんとすることを察知しているようだった。それでも、黙って続きを待っている。  ——前だったら、間違いなく“余計なお世話だ”とかが飛んでくるとこだよなぁ……  東堂は自分の能力に絶対の自信があり、同時に自分の限界もわきまえている。それゆえに、他人から心配されるのは、プライドを傷つけられることと同義だ。……と言うのは表向きの顔で、実際は、きっとそう振る舞うことしかできなかったのだろう。今更、他人に頼りたくなっても、東堂はきっとやり方を知らない。これから自分がそうしたことをひとつひとつ東堂に教えていくのだと思うと、将吾は身震いしそうだった。 「あの時と今は違うし、……それに何かあっても、今のお前はもう大丈夫だろ」  何を言っても、気休めにしかならないのかもしれない。それでも、将吾は伝えたかった。気休めだと思うかどうかは、東堂の決めることだ。  当の東堂はというと、なんとも言えない微妙な表情をしている。しかしその様子は、前向きなものに将吾の目には見えた。  知ったようなことを、と鼻で笑うことも、お前に何がわかる、と心を閉ざすこともできたのに、東堂はそうしていない。将吾の言葉を受け止め、それに対して自分がどう向き合うのか、考えようとしてくれている。それが、将吾には無性に嬉しい。  東堂は、ちゃんと一歩踏み出している。将吾という他人に、自分の領域に踏み込むことを許した。自分を傷つけようと思えばそうできる範囲まで将吾を受け入れ、拒絶しなかった。今ここで、誰の目もない場所で2人でいても、東堂の態度がぎこちなさこそあれ、警戒や嫌悪のそれではないことから、それがよくわかる。  それは、東堂にとってとても大きな変化であるはずだと将吾は思う。そしてそのことが、将吾はとても愛おしかった。  だからと言って、それが即ちもう大丈夫、だとは将吾だって思ってはいない。けれど、前と同じことが起きても、その結果は少なくとも、もう前とは同じにはならない。  ——それに……  将吾は心の中で小さく、付け加えた。心なしか、頬が熱い気がする。  ——今は、俺がいる。  口にこそ出さなかったが、思い浮かべただけで猛烈に気恥ずかしさが襲ってきた。まだ何も、はっきりと形になっていないのに。キスひとつ許されただけで早まった気持ちを誤魔化そうと、缶コーヒーを一気にあおる。案の定気管に入って咽せた将吾に、変なものでも見るような東堂の冷たい視線が突き刺さった。 「話がそれだけなら、もう俺は戻る。お前もいつまでも油を売っているなよ」  将吾が百面相をしている間に、とうに自分の分は飲み終わったらしい東堂が缶をゴミ箱に放り込み、後ろも振り返らずに大股で休憩室を出ていく。ろくに会話もできなかったが、それでもこの時間に意味はあったと、東堂の背中を見て将吾はなぜか思っていた。
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