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18. 愛しい誤解
店を出てから駅までの道を、東堂と将吾は肩を並べて歩いた。ちょうど時間は他の会社が昼食休憩に入るタイミングと重なり、近隣の企業の社員たちで静かなオフィス街が一瞬だけ活気付いている。途中、数人の女性グループとすれ違ったが、全員東堂に目が釘付けだった。将吾は誇らしいような、面白くないような、複雑な気持ちになる。そうするうちに、やがて地下鉄の駅に降りる階段の入り口が見えてきた。
「じゃあ、今日は……」
改札まで来たところで、今日はお疲れさん、と言うつもりで、将吾は違う路線に乗るであろう隣の東堂に、振り向いた。いや、正確には振り向こうとした。だが。
「……おい」
頭半分上の位置から、将吾の声に被せるようにして、ドスのきいた低音が降ってきた。
——えっ。
振り向いた先には、はっきりと怒りを顔に浮かべた東堂の姿。予想もしない反応に、将吾はその場でカチンと体が固まる。
——俺、何かまずいことしたか……?
全身から不機嫌オーラを漂わせる東堂を前に、必死にこの小一時間を思い返すが、さして思い当たる節もない。強いて言うなら、食べながらの会話に、これまで東堂相手には話したことのなかったような同期とのくだらない思い出やゴシップまがいのネタをいくつか混ぜたのが気に入らなかったか。
おろおろする将吾に、東堂はますます苛立った様子で、やがてとうとう我慢の限界に来たのか吐き出すようにこう言った。
「っお前は……、一体、どういうつもりなんだ」
将吾は何を言われているのか理解できず、ポカンと固まったまま立ち尽くす。
——え? どういうつもりって……? だって、飯食いに行こうって声かけた時の反応は悪くなかったよな??
朝からの行動を振り返っても、特段おかしなことはなかったように将吾は思い、首をひねった。急な休みをもらって、そのまま帰るつもりだったが東堂の反応を見て一緒に食事をすることにして、つつがなく食事を終えての今である。店が気に入らなかったとか、メニューに食べたいものがなかったとか、将吾が見てとれる範囲ではそんな様子もなかった。だが、これはまずいと直感的に分かる。なんなら、東堂が何に怒っているのか、将吾に全く見当がついていないことが、状況をさらに悪くしている気がする。こんな喧嘩を昔も付き合っていた彼女と何回もした気がするが、今は思い出したくない。
——せめて、何かヒントをくれ……!
こんな形で関係悪化なんて、絶対にごめん被りたい。途方に暮れる将吾に、東堂はなぜか少しだけ何かを言いかけて、言い淀んだ。
嫌な沈黙が流れる。
改札前に立っていては人の流れの邪魔になることに気づいた将吾が、とりあえず東堂の腕を取って、空いている壁際へ誘導する。だが将吾が腕を掴んだその一瞬、東堂の体がこわばるのが分かった。将吾はその反応に腹の底が冷えるような感覚に襲われる。
——っ、どうして……
目の前が真っ暗になりそうだった。一度は、踏み込めたのに。あの日触れた時は、確かに大丈夫だったのに。振り払われこそしなかったけれど、東堂の反応は紛れもなく拒絶を示していた。
頭の中が整理できないまま、人の流れから外れたところに移動して、将吾は東堂の腕を解放する。目を合わせるのは怖かったが、将吾は視線を上げた。
東堂の顔に浮かぶ、怒りと不安、そして傷つき。どんな言葉なら東堂の心へ届くだろうか。悲しみと焦りでぐちゃぐちゃな心を抱えながら、将吾はもう何度も経験したその問いにもう一回向き合う。どうしても、東堂を失いたくない。その思いに突き動かされるように、将吾は必死になって言葉を紡いだ。
「……ごめん、俺、多分すごく鈍い、から……お前が何に怒っているのか、わからない。そのこと自体にもお前が怒ってるんだろうっていうのはわかるんだけど」
将吾は許しを請うように、じっと東堂の顔を見つめ、続ける。
「俺が何かお前を怒らせるようなことをしたんなら、謝りたい。だから、教えてほしい」
その言葉に、東堂が顔を歪めた。それは今にも泣き出しそうにも見えて、将吾の体の中を言いようのない衝動が走り抜ける。許されるなら、今すぐ抱きしめたい。それほど儚く、危うい表情だった。
——したから怒ってるんだ、って嫌味すら飛んでこないか……
やがて、東堂が意を決したように、口を開いた。
「お前は、どういうつもりで俺に、あんなことを」
あんなこと、と言われて思い当たるのは一つしかない。
「俺をからかって、楽しいか……? それともただあの時はなんとなくそんな気になっただけで、やっぱり男は無理だって分かったか? それともなんだ、お前は誰にでもああいうことができるタイプか」
まくし立てているうちに怒りが再燃してきたらしく、東堂が顔を紅潮させ、語気も荒くなってくる。ここで、将吾はようやく東堂の大きな勘違いに気づいた。だがそれに気づかない様子で東堂はさらにたたみかける。
「今日だって、このまま帰るつもりだったんだろうっ……」
だめだ。これは一周回って愛しいが過ぎる。もう何を言うより早い気がして、将吾はもう一度、東堂の腕を掴んで、今度は迷いなく引き寄せた。一瞬ギョッとした顔で東堂が目を見開くのが見えたが、そんなことには構っていられない。自分の方が背が低いのがこういう時にサマにならない気がして悔しいが、それでもありったけの思いを込めて、強く抱きしめた。
「ごめん。そっか、そんな風に思わせてたんだな」
誤解はゆっくり解いていこう。それには、ここは場所が悪すぎる。現に、大の男二人が抱き合っている図は、駅構内で相当悪目立ちしていた。目を向けなくても、改札へ流れて行く人々からの視線は痛いほど感じる。
「俺は、あんまり急にその、いろいろ急いで進めたら、お前が引いちゃうんじゃないかって」
だから、じゃあとりあえず、今からうち、来るか? そう言った将吾に、東堂は黙って小さく頷いた。
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