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19. かけ違えたボタンを
「あ、えっと、ちょっと片付けるから、その辺座っててくれるか」
将吾は脱ぎ捨てたままになっていた部屋着の塊を慌てて拾い上げ、背後の東堂に声をかけた。無事部屋に通したはいいが、こんな予定ではなかったから、部屋の中の状況はあまり準備万端とは言えない。
「ほい、お待たせ。こんなもんしかなくて申し訳ないけど」
お茶の入ったグラスを2つローテーブルに置き、将吾も座った。最低限見苦しいものだけは超特急でクローゼットに放り込んだから、多少部屋の見栄えはマシになったはずだ。
将吾としては、もっと時間をかけてゆっくり関係を作っていくつもりだった。こんなに早い段階で東堂を部屋に招待することになるとは、想定外もいいところだ。将吾にだって、仮にもそれなりに特別に思っている人を部屋に呼ぶなら、もう少し用意周到にしたかった思いはある。冷蔵庫の中に、たまたま手をつけていなかったペットボトルのお茶があって助かった。
一息ついたら、やたらと喉が渇いていることに気づいて、将吾は自分のグラスに口をつけた。つられるように、東堂も自分の分に手を伸ばす。グラス越しに東堂を盗み見れば、こちらも同じように緊張した面持ちだ。膝の上に置かれた手が、落ち着かなげに握られたり、開いたりしている。電車の中も、駅からの道でも、黙っているのが気まずくてやたらどうでもいい話を振っていた将吾と対照的に、東堂は相槌を打つばかりでほとんど何も喋らなかった。
——勢いで来たはいいけど……ってところか。
将吾は、東堂の台詞をもう一度頭の中で反芻する。嬉しいやら恥ずかしいやらで顔から火が出そうだ。何から話そう。どこから、伝えよう。
「ええと……」
将吾が口を開いた途端、東堂がビクッと反応する。その姿に、将吾はこちらの出方を警戒する野生動物を連想した。真っ白な毛並みに、真っ黒な目。獰猛さと愛らしさを兼ね備えた姿は、妙に将吾の中の東堂のイメージにしっくりくる。将吾はその連想に少しだけ緊張が解け、すうっと息を吸った。
——まずは、勘違いを訂正しよう。
「俺は、お前をからかってやろうとか、そんなつもりは全くない。まして誰にでも気軽にあんなことをするとか、ありえない」
しんと静まり返った部屋に、将吾は自分の声がやたら大きく響くように感じられる。
言葉の上ならばなんとでも言えるのは承知の上だ。それでも、今はこうしかできないから。
「不安にさせたなら、ごめん」
東堂の顔をさっと朱が走る。なんだか既に付き合っている恋人同士の痴話喧嘩のようで、言っている将吾だって自分でむず痒い。でも、ここは真剣に行かなくてはならない。
意識して、顔をことさら引き締める。上手なやつならここで東堂の手ぐらい取って甘く囁くのかもしれないが、将吾にそんな芸当ができるわけもない。できるのは、ただ、本気なのだと、遊びでも気まぐれでもないのだと、うまくもない言葉で訴えることだけ。
「俺は……まだ自分でもよくわかってないし、うまく言える気もしねえんだけど、そうしたいと思ったから、ああいうことをした。好奇心とか出来心じゃない。それだけはわかってほしい」
東堂が顔を上げた。まだその瞳は不安に揺れている。薄い唇が、何かを探すように開いた。
「それは……」
掠れた声は、これまで聞いたことがないほど頼りない。まるで迷子みたいだと将吾は思った。
「お前は、男も好きになれるのか」
東堂はそう言って、なぜか傷ついた顔をした。今日はずっと、東堂の言葉と表情を結びつけることができない。その言葉がなぜその表情になるのか。どう答えれば正解なのかわからなくて、暗闇の中を手探りで進んでいるような気持ちになる。一つ間違えれば、その手を取ることは二度と叶わなくなるかもしれないのに。
「男……が好き、なわけではないと、思う」
だって、佐倉にキスをする想像をしたら、吹き出しそうになった。苦笑いに顔を歪める将吾に、東堂が眉をひそめる。
「だから、うまく言えねえんだって。だけど、お前は、別なんだ。男だからとか女だからとかじゃなくて」
記事を書く分には言葉に困ることなんてほとんどなくなったのに、こうした情緒的な話題になると、途端にうまく見つからなくなる。こういうの、なんて言うんだっけ。
「お前が、いいんだ」
小学生の作文か。でも他になにも浮かばなかった。恥ずかしくて東堂の方を見られないまま、将吾はなんとか自分を励まして続ける。
「最初は、嫌なやつだって思ってた。できれば関わりたくなかったしな。でも、こうして、組んで、お前のことを少しずつ知って……知っていくうちに、俺が思っていたのとは全然違うやつなんだって分かって、もっと知りたいし、守りたいし、支えになりたいって思った」
思い出を頭の中でなぞると、東堂と積み上げてきた時間が愛おしくてたまらなくなる。
「だから、こんなに早く、いろいろ進めるつもりじゃなかったって言ったろ? お前だってこれまで色々あったんだろうし、俺だってこんなの初めてだから、どうしたらいいか分かってない。だから、ゆっくりまずは飯から、って思ってたんだよ」
最後はやっぱりくすぐったさに負けて、少しだけ冗談めかしてしまった。苦笑いの顔を作りながら、ようやくそっと東堂の方を見る。東堂は泣き出しそうな、怒り出しそうな、困り果てているような、複雑な顔をしていた。その表情が何を表すのか、今日はいつもに増して将吾にはわからない。だから辛抱強く待った。
「お前のそれは……、恋愛の意味で捉えていいのか」
硬い声。
出た、と将吾は思った。
東堂がすんなり頷くとは、将吾も思っていなかった。おそらく東堂なりに自分を守ろうとして、自分に都合よく解釈してしまわないように、確認したいんだろう。きっとそれだけ、人を信じることに慣れていない。
でも、それならそっちに合わせるまでだ。気が済むまで付き合ってやろうじゃないか、と将吾は思う。もうそれくらいには惚れている、ということに自分でも薄々気づいていた。
「俺の中では、そう思ってるよ」
一緒に仕事ができて嬉しい、同期らしく馬鹿話がしたい、でもそれだけじゃない。
「三ツ藤のことが許せないって思ったんだ」
将吾の口から出た名前に、東堂があからさまに嫌そうな顔をする。なぜ今その話を、と言いたそうだ。
「最初は、ただあいつのやり口が汚いから、頭に来たんだと思ってた。でも、それだけじゃなかったんだ」
その当時は、自分でも分かっていなかった。ちゃんと自覚できたのは、東堂に触れたいと思った時だったかもしれない。
「あいつなんかにお前が傷つけられるのが、許せなかったんだよ」
そこまで深く東堂の心に入ることができていた、それが悔しかった。それを恋愛感情と言っていいのか将吾にはわからない。でも他の人間には感じたことのない思いだ。
「お前のことをもう誰にも傷つけさせたくないし、誰にもお前がしたいと思うことの邪魔をさせたくない。俺は、俺がいたらお前が安心して笑ってられるような、そんな関係になれたらって、思ったんだ」
どこかから借りてきた言葉でなく、自分の本当に思っていることを、一つずつ並べる。気持ちは、届いただろうか。
「お前と一緒にいたい。これから先も」
手探りで掴んだ答えは、シンプルだった。言葉が出てから、自分が一番望んでいたことを知る。
東堂の目は真っ赤で、目元も耳も同じくらい赤くて。何も言わなかったけれど、何も言わないっていうのはそういうことで。
そうするべきだと思ったから、今度こそ将吾は体を東堂の方へ傾けて、その頭ごと腕の中へ抱き込んだ。肩を、背中を撫で、ありったけの気持ちを込めて、髪に、耳に、何度も口付ける。まだ強張ったままの東堂の体は、それでも抵抗しようとはしなかった。
やがて、そっとぎこちない動きで、その手が遠慮がちに将吾の背中に回る。触れているところから伝わる東堂の鼓動も、将吾のそれと同じくらい速くて。あまりの幸せに将吾は気が遠くなりかけ、このまま死ぬのかとさえ思った瞬間だった。
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