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「ショックだよ」
少し大袈裟すぎたかもしれない。
でも、それが自分にとって、いかに意外なことであったか、いかに予期せぬことであったかを、なるべく強調して伝えたかった。
たとえそれが、見る人が見れば、あさましい姿に見えたとしても。
僕にもプライドがある。
「今どきの小学生って、結構、難しいことを勉強するんだな」
妻は私が座っている食卓にサラダと唐揚げを運びながら、「だから言ったでしょう?」と言わんばかりの微笑みを浮かべて、視線だけこちらへ向ける。
唐揚げは今度の春から小学校6年生になる一人息子の好物だが、サラダには私の好きなフレンチドレッシングがかかっている。
「悔しいけど、やっぱり塾に行かせるかぁ」
両手を天井に向かって大きく伸びをして、それが本意ではないけど、というニュアンスがことさら伝わるようにする。
公立の小学校に通う息子の勉強は、今まで塾にも行かせずに、父親の私が見てやってきた。それで学年でずっとトップの成績を取っていた。だが、妻のたっての希望で、中学校は中高一貫の私立の進学校を受験させることになり、彼女が中学受験をさせるなら、専門の塾に通わせたいと言い出したのだ。
私は高校まで地元の公立に通ったが、大学はストレートで東京にある一流国立大学の法学部に合格した。そこで妻と出会い、卒業と同時に結婚し、翌年に息子を授かった。今は行政書士の資格を取り、学生時代のゼミで一緒だった友人と共同で、小さいながらもそれなりの事務所を構えている。
仕事は忙しくもあるが、貴重な合間を縫っての息子とのコミュニケーションだと思って、彼の勉強を見てやってきたのだ。
妻が息子に中学受験をさせると言い出したときも、当然のことながら、私が受験勉強を教えてやるつもりでいた。仕事場の近くの大型書店で『解ける!◯◯中学校』シリーズという過去問題集を買い込み、仕事が休みの日曜日に早速解いてみようとしたのだ。だが、簡単に「解ける」と思っていたのに、これがさっぱりわからない。今まで見てきた学校の授業の勉強とはレベルが一桁違っていた。テキストと何時間格闘しても解けない問題に、とうとう諦め、白旗を上げたのだった。
「ショックだなぁ。僕は受験で困ったことなんてなかったんだけど」
栓抜きでビールの瓶の栓を開け、中身を私の目の前のジョッキに注いでくれている妻を横目で見ながら、同意を求める。
妻も私と同じ大学に現役合格しているが、成績はいつも私の方が上だった。
彼女はその頃から、私の才能を認めて尊敬してくれている。
「中学受験って特殊なのよ。普通に学校の勉強をしただけでは解けない問題が出るの。特に算数の問題はパズルみたいなのが出るから、いくら数学のセンスが良くっても解けるとは限らないのよ」
そう言いながら、妻は食卓に追加で小鉢を乗せた。
ちりめんじゃこと厚揚げをごま油で炒めて、ニンニクと醤油で味付けしたものに、大根おろしを乗せて浅葱を散らしたものだ。息子は食べない、私の好きなビールのつまみ。ちゃんとフォローしてくれる。
「それなら良かったよ。僕はてっきり、寝てる間に悪い魔法使いがやってきて、勉強が出来なくなる魔法をかけられたんだと思ってた。この魔法が解けない限り、僕はもう二度と連立方程式が解けないんだ」
私のジョークに、妻は意外と笑ってくれた。
「やだもう、変なこと言って笑わせないでちょうだいよ。私、あの子を呼んでくるわ」
微笑みながら私の肩をポンと叩いて、息子を呼ぶために二階へ上がっていった。
すれ違いざまに、彼女の長い髪の柔らかな匂いが私を包む。
まだ35手前。
女盛りのしなやかな後ろ姿が、トントンと階段を登っていく。
去年建てた新築。
まだ、木の匂いが麗しい。
妻と息子。
穏やかな家庭。
平凡だが、幸せな暮らし。
出会ったのは二十歳前だった。
今よりも長い髪。
透き通るような白い肌。
黒い瞳。
一目惚れ。
一瞬で恋に落ちた。
それからずっと幸せ。
ずっとずっと幸せ。
妻が食卓に戻ってきた。
「あの子、勉強してるかと思ったら、ずっとゲームしてたのよ。なんか、謎が解けなくて先に進まないとか、そんなことばかり言ってる。この調子で中学受験、大丈夫かしら?」
息子は息子で、解けない問題と格闘していたらしい。
「なんだか、今日は解けない日だね。僕は受験問題、あいつはゲーム。でも、一つだけ、解けなくて良かったと思うものがあるよ」
妻は軽く微笑み、私の額に手を当てた。
手の次は、唇。
軽く、おでこに接吻。
視線を感じる。
見つめ返す。
深く、黒い瞳。
もう一度微笑み。
「そうね。あなたと私の間にかかった、愛の魔法だけは、どうしても解けないわねねねねねねねねねねねねねねねねねねねねねねねね………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
目の前がグルグルと回り出す。
私は一瞬、気を失ったようになり、そして、目覚める。
私の尻が、長年使い込まれた、硬い木の椅子の感触を捉える。
黒く日に焼けて、節くれ立ったシワシワの指。
長く伸びた、真っ白なあご髭が、私の視界に入っていた。
狭く、暗い部屋。
私の他には、誰もいない。
抹香の香り。
目の前のロウソクが、燃え尽きていた。
フーッと、大きく息を吐く。
今のは、やはり、ため息だろうなと、思う。
(今度の魔法も、解けてしまったか)
私は長い一生を、全て魔法の研究のために捧げてきた。
世間的な楽しみも知らず、ずっと独り身のまま。
もうじき寿命が尽きようとする今、思うことは、何の為の一生であったかと。
せめて、残り僅かな人生、夢の中で暮らしたいものだと思うが、どんな魔法も、ロウソクが燃えている間しか効果がない。
解けない魔法は、遂に見つけることが出来なかった。
せめて、命が先に燃え尽きますように。
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