株式会社、武宇楽の日常

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 「この案件は……、おい、山田! 山田はどこだ!?」  静かな事務所に俺の大声が響き渡った。  おずおずと片手を上げたのは、部下の横山。  「山田君は……、今日は来てません……」  「……なんだと?」  俺の右手は、ぷるぷると震えていた。  「……連絡は?」  「来てません」横山は困った顔をしている。  「本当にどうしようもない奴だ……。新卒が無断欠勤だと……?」  俺はすぐに山田に電話をかけた。  三度目のコールで電話は繋がった。  「おはよう、山田君」俺は努めて明るい声を出した。  「……部長、おはようございます」  山田の声には、隠しきれない『寝起き感』が含まれていた。  「今、何時だと思っている?」  「え……? えっと……、午前九時ですケド」  「朝礼は何時からだっけか?」  「八時からです……」  ふう、と俺は息を吸った。  いかんいかん、一昨日と昨日、まともに寝ていないもんだから、思わず怒鳴りそうになってしまった。  最近の若いもんは、少し叱るとそれだけで病んでしまうからな。  優しく、丁寧に……。  「山田君、君の案件について少し確認をとりたくてな、今から来られるか?」  「え、すみません、今日ちょっと用事があるので……、電話だけで解決する問題では無いんですか、それ」  その瞬間、俺の中にあった理性のダムはいとも簡単に決壊した。  「山田ああああ! いいから来いっつってんだよ! 無断欠勤しておいて何だその態度は!」  「え……? いや……」  はぁ、はぁ、と俺は肩で息をしていた。  まずいな……、寝不足のせいで体力が落ちている。  頭も痛いぞ。  とにかく早急にこの一件を片付けて仮眠をとらねば。  「あの、部長、ひとつ確認してもいいですか?」  山田の申し訳なさそうな声。  「……なんだ?」  「えっと、今日って日曜日ですよね?」  「だから、なんだ?」  「いやだから、今日って会社休みですよね?」  俺は思わず大きな溜息をついた。  「そりゃ、表向きはな」  「いやいやいや、聞いてないですし……」  「いいから、早く来い」俺は静かに言う。「我が社は三百六十五日、年中無休! 奉仕の精神をもって、お客様のために全てを捧げる覚悟で働くのだ!」  「薄々察してましたけど、やっぱりこの会社って糞ブラックだったんすね……。部長、すみません、自分今日限りで辞めさせて頂きます。今までありがとうございました。この前、一緒に食べたラーメン、すごく美味しかったです。できれば、またお供したいですね……」  「おい、こら!」  つー、つー、と電話から音が鳴った。  「……ったく、これで三人目か」俺は溜息をついた。  「あ、山田君も辞めたんですか?」部下の横山が尋ねる。  「ああ、まったく、最近の若い者には『覚悟』が足らん」  「そうですね~。あ、部長、すみません、これ」  「ん?」  横山が俺に渡したのは、『退職願』と書かれた封筒。  「僕もそろそろ限界なんで、辞めさせて頂きます。今まで、いろいろありがとうございました、部長」  「……」  「あ、僕はちゃんと引き継ぎしてから辞めるので、そこは安心してください」  「……」  そう言うと、横山は業務に戻った。  ……ふむ。  いっきに二人も抜けるとなると、これは相当厳しいぞ。  いま以上の寝不足になることは間違いない。    俺はしばらく天井を眺めてから、ゆっくりと息を吐いた。  「……横山、ちょっといいか?」  「? なんですか? 辞める決意は覆りませんよ?」  「いや、そうではなく、少しペンを貸してくれ」  「へ? いいですけど。どうしたんですか?」  俺は横山からペンを受け取ると、優しく微笑んだ。  「ああ、これから俺も辞表を書かなければならないんでな」  「あ、部長もリタイアですか」  「まぁな。このままだと死ぬし」  覚悟がどうとか、関係ない。  無理なものは、無理なのだ。  俺はパパっと辞表を書き上げると、その辺で雑魚寝を始めた。  たぶんそれは、これまでの人生で一番気持ちのいい睡眠だった。  【完】
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