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3/11 水曜日
仕事を終えたばかりの大藪は異様に細長い公園の上空に目を向けた。そこに空はなく、コンクリートの屋根の上を絶え間なく走る車の音が響いている。
騒音を厭うように周辺の家々もみなこちらに背を向けていた。
東京の都心を走る高速道路、いわゆる首都高は土地の有効利用を図るためにそのほとんどが高架となっている。道路の上空だけでなく、川の上を走る首都高も少なくない。その川もまた埋め立てられて暗渠となり、駐車場や公園として活用されていた。
当時の名残は三メートルほどの高さにもなる護岸だけだ。それを利用した壁に向かって、テニスのボールを打ち返す音が小気味よく聞こえている。隣のフットサルコートでは大学生らしい男女がサッカーボールを追いかけていた。
チェック柄のダッフルコートを着た大藪は、ポケットに両手を入れてボールを目で追いながら若者たちの横を通り過ぎた。
「昼間から元気だな」
その表情に笑みはない。かといって不機嫌そうに顔をゆがめることもなく、ただ歩いていく。滑り台がぽつんと置かれた広場を通り過ぎると、公園の端に位置する自転車置場で足を止めた。
スマホを取り出して画像と比べながら雑然と並んだ自転車を順に見ていく。
「これか」
水色のフレームに貼ってある登録番号を確認すると、前かごの下へ手を伸ばすようにしゃがみこんだ。
「だめっ!」
背中から突然かけられた声に振り向くと幼い少女が立っていた。
五、六才だろうか。まっすぐな黒髪を肩まで伸ばし、じっと彼を見ている。
「おじさん、わるいことしたでしょ」
大藪は激しく動揺した。目を見開いて口をまっすぐに結んだまま動きを止める。
すぐに彼女へ向き直ると一歩近づいた。
「おじさん、って俺のこと?」
「そうだよ」
「マジか。俺、まだ三十にもなっていないのに」
「パパも二十九さいだよ」
大きなため息をついた大藪が肩を落とした。顔を上げて、さっとあたりに目を配ると少女へまた一歩近づいてしゃがみこんだ。
手を伸ばせば彼女の肩に届く。
「どうして俺が悪いことをしたと思ったの?」
「ダイローカン」
「は? 何それ」
「ママがよく言ってるよ。パパが帰ってくるのがおそいと、お酒のんでるんだ、って。ダイローカンでわかるんだって」
「あぁ、なるほど。ダイローカンね」
うつむいた大藪の顔には苦笑いが浮かんでいる。
「アヤナね、おじさんがわるいことしたの、分かるよ」
「ダイローカンでね」
「うん。それに、その自転車、おじさんのじゃないでしょ」
しゃがんだまま大藪は小首をかしげ、興味深そうに少女の言葉を待った。
「その自転車、ハゲのマジシャンさんのだよ」
思いがけない返答に一瞬固まった大藪は、すぐに声を立てて笑い出した。
「そりゃ確かにそうだけどさ、ハゲなんてはっきり言ったら北条さんが可哀そうだよ」
今度は少女がきょとんとしている。
「おじさん、ハゲのマジシャンさんのこと知ってるの?」
「あぁ、友達だよ。だからこの自転車を借りる約束をしていたんだ」
「そうなの? じゃあ、おじさんも手品できる?」
「いや。手品は出来ない」
がっかりした表情の少女をよそに、大藪は立ち上がった。首を回して自分が歩いてきたほうを見やる。
「手品みたいに直してもらえるかと思ったのになぁ」
「なにを?」
「自転車」
少女が指をさした先にはピンクの小さな自転車があった。
「どこが壊れた?」
「わかんない。動かなくなっちゃったの」
「見てあげるよ」
小走りに自転車へ向かう少女の後を、大股でゆっくりと大藪がついていく。
近づいてみるとチェーンがだらりと垂れていた。
「チェーンが外れちゃったんだな」
自転車の横にしゃがみこみ、左手でチェーンをギアに掛けてから右手でペダルを逆に回した。ガチャっと音を立ててチェーンがギアにはまる。
「直ったぞ」
「ほんと⁉」
少女がおそるおそるサドルにまたがりペダルを踏む。
ピンクの自転車が前に動き出した。
「ほんとだー! おじさん、すごーい」
植込みのそばで自転車を停めると、少女は大藪のもとへ戻ってきた。
「はい、これ」と小さな右手を差し出す。
大藪は受け取ろうと出しかけた右手を引っ込めて、チノパンのポケットで拭ってから手のひらを上に向けた。
そこへ小さな葉っぱが一枚、乗せられた。
「直してくれたおれいよ」
「ありがとう!」
にぃっと笑った大藪を避けるように、少女が体を斜めにした。その視線は遠くに注がれている。
「あれ、なぁに」
大藪も振り返った。異様に細長い公園の反対側で赤いフラッシャーが回っている。
「あれは何か事件が起きたんだな。俺のダイローカンだ」
「アヤナ、行ってみようかな」
「気をつけて行きなよ」
うん、バイバイと手を振って、少女は自転車を漕いでいった。
大藪は少女からもらった小さな葉をポケットにしまうと、水色の自転車に戻って前かごの下に手を伸ばした。
北条から聞いていたとおり、小さな鍵がガムテープで貼りつけてある。尻のポケットから、指輪を通したキーホルダーを取り出した。
指輪と鍵が並んで揺れる。
「あの子、なんで北条さんのことを知っていたんだろ? まさか神様だったりして。ほんと、人は見かけによらないからなぁ」
大藪はサドルにまたがり、赤いフラッシャーを背にして公園から去っていった。
聞こえるはずのサイレンの音も、コンクリートの屋根から響くノイズにかすんでいる。
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