ハッカの妹は2歳で死んだ

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 ハッカの妹は2歳で死んだ。兄とは9歳離れていて、りんごという名前だった。  りんごは生まれたときに、すでに致死性の病気を持っていた。医者からは、1歳の誕生日がくるまで生きられないと言われた。  りんごなんていう、一風変わった名前を付けられたのもそのせいだ。ハッカの両親は、どうせこの子は学校に上がるまでは生きられない。  だから、一般的でない名前であっても、それが原因でいじめられることはない。大きくなって、就職試験の面接で、「ほお、りんごさんと仰るのですか。それは、我が社にピッタリな名前ですね」と言われることもない(もちろんこれはりんごメーカーの場合である。他の会社であったら、どんな反応であっただろうか?いずれにせよ、本人にとってそれは、不愉快なものか、愉快なものか、あるいはそのどちらでもないか、のいずれかである)。  そういうわけで、彼らはたとえ短い間でも、濃密で楽しい時間を過ごし、愛情を目一杯注ぐことができるようにと、世間体を鑑みずに彼らにとってその目的が最大限に達成されることを願って、娘にりんごと名付けたのだ。  その目論見は功を奏し、りんごは2歳と3日の短い人生を、両親の溺愛と兄の慈しみに包まれて過ごした(ハッカは、たとえりんごが別の名前であっても同じように妹に慈愛を注いだであろう。もしそれが仮にチェリーというような平凡な名前であっても)。  りんごが死んだとき、半島から半島へと旅するさすらいの吟遊詩人がやってきて、「りんご嬢の人生には、ただ愛のみが存在した」と吟じたが、ハッカには、この吟遊詩人には、あまりこの世の真実を感じとる力がないということが分かった。  なぜなら、りんごには愛だけしかなかったのではなく、彼女はコトバの天才だったからだ。  ハッカは学校で言葉を習っていて、クラスの誰よりも優秀であった。しかし、そのハッカを持ってしても、りんごが操るコトバを理解するのは難解を極めた。  それは音にすれば、「アーゥ、アー」とか、「ミャー、ァフー」とかいうものだったが、いずれも正確ではない。ハッカでは、喋ることも理解することも叶わぬコトバだった。  苦心の末、彼はりんごが彼の知らないアルファベットを使っているのだという仮説を立てた。そのことを母親に言ったら、「赤ちゃんはみんな独自のコトバで喋るのよ。お母さんなら、なんて言っているのか理解できるわ」と言われたが、彼はそんなはずはない、と思った。  世間の他の赤ちゃんが、りんごほどコトバの才能を持っているはずはないし、母親はよく、りんごのコトバを誤解して受け取っていたからだ(本当は別のことを言っているはずなのだが、なぜか母親には、おなかがすいた、と聞こえていることがよくあった)。  りんごのコトバの中で、ひとつだけハッカにもわかるものがあった。それは「ヒャーハ」というもので、ハッカのことを意味した。  りんごはコトバのほかにも、泣くことと笑うことと、ゲップをすることが得意だった。母親の前ではよく泣き、ハッカの前ではよく笑った。ゲップは誰の前でもよくした。  その頃ハッカは小学校5年生で、人生の辛い時期にあたっていた。クラスメイトはみんな彼より体が大きかったし、力も強かった。  ハッカはクラスで一番ドッジボールが下手で、サッカーは2番目に下手だった(彼より下手だったのは、義足の少年だった)。逆上がりができないのは彼だけだった。ケンカになれば、小学校4年生にも負けた。  家にはテレビがなかったから、テレビタレントの話になると、ついていけなかった。ゲームというものにも触れたことはなく、漫画本も読んだことはなかった。だからそれらのことをクラスメイトたちが話題にし始めると、それはハッカにとってはりんごのコトバよりも難解なものになった。  彼と話の合う友達はまわりにはいなかった。クラスメイトが彼に話しかけるのは、決まって宿題の答えを見せてほしいというときだけだった。彼は学校の勉強だったら全て理解できたのだ。それ以外で、クラスメイトが彼の存在を認識することはほとんどなかった。通信簿には、いつも大人しすぎると書かれた。  だからりんごは、彼のたった一人の友達だった。言語的コミュニケーションに難があるとしても、である。りんごの前では、彼は笑顔を見せることができた。  ハッカはなんでもりんごに話した。その日学校であったことから、将来の夢まで、恥ずかしくて、とても他の人には言えないようなことも、りんごの前では素直に話すことができた。  ハッカにはりんごのコトバは理解できなかったが、妹は兄の言うことを全て理解できた。ハッカにはそのことがわかった。なぜなら、彼がどんな冗談を言っても、りんごは飛び切りの笑顔を見せてくれたのだから。  そのりんごが死んでしまって、ハッカには笑顔を見せる相手がいなくなった。彼はひどく塞ぎ込み、何日も学校を休んだ。食欲もなくなり、見る見るうちにやせ細ってしまった。  母親は、彼の好きな若鶏の甘辛煮を作って食べさせようとしたが、それでも駄目だった。父親は彼を元気づけようと、笹舟を作って湯船に浮かべてみたが、それでも彼の憂鬱は居座ったままだった。  そこで両親は一計を案じた。マーケットに行って、あるものを買ってきたのだ。それは値段的にいうと、決してお財布に優しい買い物ではなかった。りんごが生きていたとして、18歳まで育てたのと同じだけの金額であった。  しかし、こんなときでもあるし、思い切って買ったのだ。それに、両親もりんごがいなくなって寂しさを感じていたのだ。  ある日、ハッカが自分の部屋で、何をするでもなく過ごしていると、ドアが開く音がして、「ヒャーハ」という声が聞こえた。  驚いて振り返ると、そこにはりんごを抱いた母親が立っていた。りんごは母の腕の中から降りると、「ヒャーハ」「ヒャーハ」と言いながらヨチヨチと近づいてきた。  ハッカはりんごを抱いた。ポヤポヤとした四肢の感覚も、ツルツルの肌触りも、汗の混じったミルクの匂いも、りんごそのものだった。 「驚いたでしょう。自動人形よ。高かったから、どうしようかと迷ったけど、お父さんもお母さんも、りんごがいなくなって寂しかったから、結局買うことにしたのよ」  と母親が言った。聡明なハッカには、それで十分な説明だった。  彼はまた学校に行くようになった。学校では相変わらず一人ぼっちだったけど、寂しさはなかった。彼には、なんでも話せて、どんな秘密でも打ち明けられる、最高の友達がいたのだから。  自動人形のりんごは、「ヒャーハ」「ヒャーハ」といい、ハッカの冗談には、なんでも笑った。  ところが、次第に彼は満足できないようになっていった。というのは、りんごをりんご足らしめていたもの、すなわち、他の2歳児が持ち合わせていない、卓越した言語能力を、自動人形のりんごは備えていなかったからである。  それは「ヒャーハ」「ヒャーハ」というばかりで、本来のりんごが持つ豊かな言語表現が再現されていなかった。  それもそのはず、りんごの才能に気づいていたのは、この世でハッカただ一人だったため、この自動人形は並みの2歳児に合わせて作られていたからだ。  こんなのはりんごじゃない、と彼は思った。たとえ見た目や匂いが完璧に再現されていたとしても、コトバがなくてはりんごではないのだ。  時が経つにつれて学習していくかと思ったが、2歳のりんごはいつまでたっても「ヒャーハ」としか喋ることができなかった。自動人形は、首の後ろについているダイヤルを回さなければ、歳を取ることができないのだ。  そこでハッカはダイヤルを回した。両親からは、1年経つまでは回さないようにと言われていたが、彼には耐えられなかった。  りんごは3歳になった。すると「ヒャーハ」とは言わなくなり、「お兄ちゃん」と言った。ハッカにもわかる言葉で、「おなかすいた」と言った。他にも舌足らずの言葉で、色々と喋るようになった。スズメのことを「するめ」と言い、お味噌汁のことを「おしろみる」と言った。  ハッカはなんだか気持ち悪くなった。まるで自分の消しゴムとクラスメイトの消しゴムの区別がつかなくなってしまったような、そんな違和感だった。  そこで彼は、さらにダイヤルを回した。グルグルと何回か回した。するとりんごは7歳になった。その表情には自我のようなものが現れ、ある種の知性のようなものも見て取れた。はっきりとした好き嫌いが現れ、この世に善と悪が存在することを知っている顔付きだった。  りんごは少しすねたような顔で、「お兄ちゃんのバーカ」と言った。ハッカは驚いて、慌ててダイヤルをグルグルと回した。少し抵抗されたが、ハッカの腕から逃げるほどの力ではなかった。  すると今度はハッカよりもいくつか歳上の少女が現れた。真っ直ぐな長い黒髪の、濡れたようなまつ毛を持つ、美しい少女だった。りんごはこんなに美しく成長するのかと、ハッカは見とれた。  しかしりんごの口から出た言葉は、「なに見てんだ、気持ち悪い」という冷たいものだった。その言葉はハッカの純粋な魂を傷つけ、危うく砕きかけた。  彼は慌ててダイヤルを回そうとしたが、今度はりんごの方が力が上だった。「変なとこ触んな、クソガキ」と口汚く罵られ、突き飛ばされてしまった。  ハッカがダイヤルを回すことができたのは、翌日の朝になってからだった。彼が目を覚ましたとき、りんごはまだぐっすり眠っていて、この分だと昼になるまで起きてこないと思われた。  彼はグルグルと、グルグルと数え切れないぐらいダイヤルを回した。りんごの黒い髪はたちまち白くなり、その何割かは抜け落ちた。  白く艶やかな肌は浅黒く日焼けし、何本もの深いシワが刻まれた。背骨が曲がり、体もしぼんだ。  朝まだ早い時間だったが、りんごは目を覚ますとこう言った。 「おや、ハッカ。どうしたんだい。そんなに深刻そうな顔をして」  ハッカが何も言えずに戸惑っていると、りんごは体を起こして、ハッカを抱き寄せた。骨ばったカサカサとした手で、彼の頭を撫でた。ハッカは細い体に失われつつある生命力と、包み込まれるような安心感を感じた。 「そうかい。辛いことがあったんだねえ。でも、いいんだよ。そのままで。そのままでいい」  ハッカはしばし、枯れた胸に顔を埋めて泣いた。 「学校で辛いことがあったのかい?行きたくなければ、行かなくていいんだよ。それとも、お母さんに叱られたのかい?こんないい子を叱るなんてねえ。いいんだよ、ハッカ。おまえはそのままでいいんだよ」  ハッカはここのところずっと胸につかえていたものをコトバにした。りんごが死んでしまったこと。たった一人の彼の友達だったこと。りんごのコトバを知っているのは自分だけだということ。2歳のりんごが、どれだけ豊かな言語能力を備えていたかということ。  時にそれは言葉にならず、単なる呻き声のような音になった。野生と文明が分離する以前の、魂のコトバだった。  それでも彼は話した。人には言えない秘密も、恥ずかしい悩みも。言葉にならないコトバを話した。りんごならそのコトバが理解できると知っていたから。  年老いたりんごは、「うん、うん」と頷きながら、ハッカを抱き寄せ続けた。 「そうかい、そうかい。いいんだよ。それでいいんだよ」  その日以来、ハッカは徐々に回復していった。どんなに学校で辛いことがあっても、両親が彼のことを理解していないように思える日でも、もうへこたれることはなかった。なぜなら、彼には全てを打ち明けられる、最高の友達がいたのだから。  ハッカと年老いたりんごとの共同生活は、その後何年か続いた。自動人形はやがて寿命を終えると、塵へと還った。  そのとき彼の精神に何が起こったのか、詳しい記録が残ってないので、よくわからない。ハッカは歴史に残るような人物ではないのだ。ただどこかの学校で、生徒たちに言語学を教えていたようだ、とは聞いている。その能力がいかほどのものであったとか、幸福な人生を送ったのか、ということは伝わっていない。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加