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二十 立春の祝い
立春とはいえ、空気は冷たく澄み渡っている。部屋の中を意味もなくうろうろしていた優果は、チャイムの音でぴたりと動きを止めた。応答すると、「透です」と細い声が言った。
玄関の扉を優果は見つめる。のぞき穴がいちばん星のように光っている。すぐそこの玄関を、優果は遠く感じた。近づいて、小さく震える手に力が入って、扉がひらかれる。
切れ長の目が優果を認めて、さらに細くなった。透は、両手を差し出して、ゆるやかに優果を抱きしめた。同じ速さの鼓動がゆったりと響き合う。
「おかえり」と優果は透の背中をなでた。
「ただいま」
かすれた声が答える。
そのまま身じろぎせずにいた二人のもとに、足音が近づく。ゆるりと身体を離した二人は、泣き笑いのような顔をした志生を見つける。透は迷わず志生を抱きしめて、志生をしどろもどろにさせた。
「け、ケーキが」と志生が差し出したので、優果は慌てて受け取った。そのとき、ほとりと何かが落ちて、気が付いた優果が拾い上げた。それは小さな丸いつぼみだった。
「これは志生の?」
はっとした透が気恥ずかしそうに志生から離れる。
「うん、私のだ。落ちてたから拾ってきた。花開きというのをしようと思って」
志生は同じようなつぼみをいくつか持っていた。
昼食の準備をしながら、志生が「お皿につぼみをのせてもいい?」と聞いた。かまわないよ、と優果は小皿を一枚渡す。透が果物を食べるとき、よく使われたたお皿だ。うすく水が張られて、さっきのつぼみが浮かべられた。
「これは梅?」
「うん」
白梅はごはんと一緒に卓上へ運ばれた。
きぬさやの混ぜごはん、小松菜と肉みそ炒め、おからの煮物、剥きたてのポンカン……張り切った志生の贈り物が並んでいく。
「それからこれ、おいしそうだったから買ってきちゃった、ワカサギのマリネ」
食卓のにぎわいをよそに、透がシードを見つめている。
「食べちゃだめ」
「食べてはいけないものが逆転するなんて、おもしろいな」
「逆転の逆転で戻っただけだよ」
三人が食卓につくと、志生が何か言いたげに二人を見た。やわらかに静かになって、志生は口をひらく。
「前にも言ったけど、今週末にはもう、トオシに戻るんだ。それからたぶん、今度は別の土地に行くと思う。しばらく、お別れだね」
志生の声音は、寂しさ以上の期待と安心感が含まれている。
「こうして優果の日常に参加させてもらえて、透も必ずいて、すごく羽を伸ばせた冬だった」
志生はまず優果を見て、それから小鳥を見ていたときと変わらない様子で透を見た。
「立春と、透の目覚めを祝って、今日はたくさん食べよう」
「いただきます」と宣言されると、三つの手は待ちきれないとばかりに動き始めた。
透は真っ先に、ポンカンを指でつまんでかじった。「おいしい」と、涙を湛えたような目をぬぐいながら少しずつかじる。次に箸を持ち、おからの煮物をほんのり口に入れた透は、目を丸くして顔を輝かせた。
「味がすごく豊かだ」
透の箸はぎこちない動きだが、少しずつ丁寧にごはんを運ぶ。
「おお、ワカサギおいしい」と志生は満足そうに笑った。
優果は、おかずに目を奪われながらも、きぬさやごはんによくなじんだ甘い高野豆腐がおいしいため、もりもり食べる手が止まらない。その様子を、透がまぶしそうに見つめた。
「そういえばさ」と志生が切り出した。「透は、身体に戻ったとき、誰にも呼ばれていないよね。どうやって戻ったの?」
小鳥のようなひと口で食べていた透は、手を止めて、ううむ、と額に手をあてる。
「気が付けば夢から覚めたように、もとに戻っていたけど……あの日はたしか」
穏やかな声が広がっていく。
「優果と志生がわたしを呼ぶ声のことを考えていて、耳の中に再現できないものかと、何度も、透という響きをつかもうとして」
透は何か気が付いた様子で、「呼ぶことが重要だと、志生は言っていたよね」と確認した。
「うん、呼ばれることで引き寄せられるのだと考えていた」
「たしかに、呼ぶという行為は重要だった。でも」
ふ、と淡い笑顔が浮かび、「わたしを呼ぶのは、わたし自身じゃないといけなかったらしい」とささやきのような声が言った。
「わたしがわたしを呼ぶことで、身体と魂が呼び合っている状態になったのかもしれない」
優果と志生は顔を見合わせた。二人には見つけられなかった、新しい方法だったからだ。
「それは思いつかなかったな」と志生がおもしろそうにつぶやいた。
昼食を終えた午後、思い思いにのんびりしていると、机でうとうとしていた優果が、ふと水面の白梅に目を止めた。
「そういえば、花開きだっけ、志生が言っていた言葉」
「ああ」と本から顔をあげた志生がぱっと笑う。
「落ちているつぼみを拾ってきて、水に浮かべて咲かせるっていう遊びを、トオシの町では花開きと呼んでいたんだ」
桜でやる人が多く、次いで梅や桃など、木の小さな花でよくやるのだと志生は話した。
「このつぼみは、もらっていいの?」
「もちろん。つい拾ってきてしまったなと思っていたんだ」
「あ、おはなしを思いついた」と横になっていた透がしゃべった。「花だけに」
「なんだって?」
「なんでもない」
優果と志生は口を閉じ、透のおはなしを待った。その姿は、図書館のおはなし会が始まるのをじっとしている子どもによく似ている。
「短いおはなしなんだけどね……川の、流れがほとんどない水たまりみたいな浅瀬に、つぼみがいくつも落ちているときは、小さい人が花開きをしていると思ってほしい。仲のよい小鳥につぼみを拾ってきてもらって、小さい人たちにとっては湖のような水面に、つぼみを落としてもらうんだ。花開きは、お別れの気持ちを整える時間でもあった。花がひらけば、旅を志した人たちが出発するからだ。
花番は毎日、早朝につぼみを確認する。そして花ひらいた朝、花番から人々に伝わって、みんな見送りに集まる。あたりはうす明るく、ひらいた花はほのかに光っている。旅人たちは花の舟にひとりずつ乗り込む。木の枝から彫りだした櫂を軽やかに操れば、ツイと花がすべりだす。お元気で、お元気で、というささやきの中、いくつもの花が、川に乗って流れていく……ほとり、ひらり、ふう」
おはなしが閉じる言葉が鳴る。まるで、ひとひらの雪が落ちる音。いちまいの花びらが舞い降りる音。小さな火が、そっと風に吹き消される音。
三人が毎日近くにいた、大学生のときのような光が、穏やかに満ちる。
「あ、花といえば」
透が、円形の小さな缶を紙袋から取り出した。
「渉さんにいただいた、おやつ。いっぱいあるのに増やしてしまうけど」
「わ、ありがとう。おやつはいくらあっても嬉しいからね」
優果が顔を輝かせて身を起こした。どれ、と志生も机のそばによって、三人はかわいらしい小缶をひらいてみた。甘い香りがふわりとこぼれる。
「スミレの、砂糖漬け」と志生が文字を読み上げた。「すごくおしゃれなお菓子だ……」
「スミレって食べられるの?」
「まあ、食べ物としてここにあるんだから、まず食べようよ」
紅茶がほしい、と志生がお湯を沸かしにいった。おやつタイムだ、と優果と透も食器を用意してそわそわする。
ほかほかと紅茶をいれると、優果たちはスミレの砂糖漬けをおそるおそる口にした。カリ、とした触感とともにお砂糖が鳴る。甘みとほろ苦さが混ざり合う。三人は実験でもしているような面持ちで初めてを味わった。
「貴族のお茶会みたいな気分」と透が首をかしげる。
「なるほど。私はこういう草の苦みが好きかもしれんな」
「大人向けのやわらかい金平糖みたいな感じ」
ささやかな感想会の後、志生がおやつのメインを取り出そうと冷蔵庫をあけた。
「あっ」と声がして、志生はおほしのこばこを掲げた。
「冷蔵庫に入れちゃってた。はい、優果に」
ありがとうと受け取った優果は、さっそく開封した。透もとなりで見守っており、二人は熱心な子どものような顔をしている。
「あ、レアだ」
机の上でケーキの箱も開封される。「よかったじゃん」と志生がほほえみながら、メインのおやつを整えていく。
指輪に星型の宝石が三つ並んでいて、虹色にキラキラ光った。中指に入れようとして、入らない、冷たい、と優果たちは笑う。
食卓のお皿に、小さめのつつましいケーキが三つ、のっている。クリームの波打つ陰影がきれいだったり、しんと張りつめた湖面のようなチョコレートがつややかだったりする。
「ああ、ずっとここで暮らしたかったな」
「透は私と違って近いんだから、足しげく通えばいいじゃん」
「近いといっても、バスに乗らないときついし」
楽しそうな笑い声の中、「家は、出るよ」と透が言った。確信に満ちた声だった。
「三年後を楽しみに」と言った別れ際の優果に、志生は「気が長すぎる」とほほえんだ。
「三年後と言わず、まずは……春が来るでしょ。たけのこや春キャベツがあって……夏至が来て、陽射しがまぶしくなった頃、桃が食べられる。いろんなことを楽しみにして、毎日を送ってね」
志生は、十二月の再会のときのように優果を抱きしめた。
眠って目覚めて、新しい明日を迎える。「おはよう」と自分自身に話しかけて、優果は起き上がる。部屋の中に無数の光が満ちている。目をあけていても、とじていても、大事なものが見える。
机の小皿で、梅の花がほんのりひらいていた。やわらかな白光りが宿っている。優果は顔をほころばせて、水を取り替えた。
朝ごはんを食べて、身支度を済ませる。梅の花をもう一度ながめてから、靴を履く。
読みかけの本、羽根が入った小瓶、まだ残っているおやつ。好きなものを数えながら扉を開けた優果は、透きとおった風の中を一歩、踏み出す。
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