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一 鳥になった透
川は夜の電灯を揺らしながら、こうこうと流れ続けている。優果は、冬の息吹に冷やされた柵に身をあずけて、じっとしていた。頭の中を、水の音でいっぱいにしているのだ。目をあけていても、とじていても、大事なものなんて見えない。
流れる水の音に、かすかな声が混ざった。きっとまた幻聴だと無視されかけたその声は、「優果」と名前を呼んだ。
はっと身体を起こした優果は辺りを見る。人影はない。足元で動いた何かに目を向けた優果は、地面の小鳥に気が付いた。
「聞こえない?」
心細そうな友人の声に、「透?」と呼びかけた。小鳥はじっと優果を見つめている。すると心が遠く、三年以上前へと引き延ばされていった。大学生だった頃の、明るくて広かった時間。そばにはいつも、優果の大好きな友人たちがいた。
「聞こえるんだね、優果」
「どういうわけか、透が小鳥に見えるよ」
「そう、鳥になったみたい」
たとえ幻でも、毎日がいっぱいいっぱいだった優果は透に会えたことが嬉しかった。
「よかった、優果。夢の中だとしても会えた……さようなら」
「待って」と優果は地面に膝をついた。「どうしても行かなければならないの?」
「志生にも会いに行こうと思って」
透の声で「志生」と聞いた優果は、いつも一緒にいた友人の気配を胸いっぱいに思い出す。瞬きした優果の目から涙がこぼれた。
「その小鳥の身体で、飛んで、志生に会いに行くの?」
「きっとたどり着けるよ」
「それはちょっと、厳しいんじゃないかな」
志生は今、北のほうの、電車とバスを乗り継いでいった場所で働いている。地図や交通機関を使えない透が、ただ地名のみを知っている志生のいる土地へとひたすら飛んでいくには、あまりにも無理があった。
「透、私が川沿いにいたからよかったけど、いなかったらベランダまで来るつもりだったの?」
「いや、優果の家がどこにあるのかは覚えていない」
「なんて無茶な」
頬に残る涙のあとを冷たい風がなでていく。
「うちに来て」
「優果の家ってペット可だっけ?」
「そんなこと心配している場合じゃないでしょう。とりあえず、来て」
「鳥だけに?」
優果は両手で小鳥をすくい上げた。目をぎゅっとつぶって、開けて、手の中のぬくもりを確認する。
「あの」
透は気まずそうに切り出した。
「鳥って、括約筋がないんですよ」
「かつやくきん?」
「排泄をコンロトールする筋肉がないんですよ。だから人の手の上に乗っているのは不安で」
「気にしないよ」
弱々しく立ち上がった優果は、深まる冷たい夜の中を歩いていく。「わたしが気になるのですが」という透の声は静かに無視されて、優果の両手に大事そうに包まれていた。
部屋の灯りの下にいる透は、白い小鳥だった。一見、白文鳥に似ているが、くちばしや足も含めすべて白い。
「身体を洗ってもらおうかな」と優果はしばらくスマホで調べ物をしていた。ほどなくして風呂場に、水を張ったボウルが用意される。
「水?」と透が尋ねる。
「水だよ。お湯だと脂が落ちて、身体が冷えてしまうって」
そっとボウルに入った透は、おそるおそる顔面を水につけた。羽を広げて動かしたり、くちばしで羽をなでたり、尾羽を広げたりする。
ぎこちないながらも水浴びを終えると、ボウルから出てきた透は「水分を飛ばしてみるから、離れておいて」と注意した。優果が避難すると、小鳥は羽をふくらませて細かく震えた。水辺の鳥のようなしぐさだった。尾羽を振り、くちばしを使いながら毛繕いを終える。
「終わったよ。後片付けができないけど……」
「いいよ。これくらい大丈夫だから」
片付けながら、優果は助けになれることを嬉しく思っていた。
差し出された優果の手に、透がちょいと乗る。手のひらにしっとりした熱が伝わる。
机の上におろされそうになった透は、「四つ折りのティッシュをいただけますか」と思い出したように言った。括約筋を気にしているらしい。ティッシュがひかれると、透はその上にふくふくと座った。
買ってきた夕飯を温めた優果も、腰を下ろす。黙々とごはんを口に運ぶ優果を見ながら、透はぽつぽつと話す。
「羽渡川の近く、ということしか覚えていなかったけど、夢の中なら絶対に優果に会えると思ったんだ」
「会えなかったら、この寒い夜にどうなっていたことか……」
「そのときは夢から覚めるなり、成仏するなりするんだろうね」
もし夢ならば、それでもなお働いて、重たい頭と身体を引きずって夜の川に行くだけなのか、と優果は苦笑する。頭を川の音でいっぱいにすることは、優果にとって毎日を耐えるために欠かせないことだった。
「透の家は羽渡川の向こうだったよね。この方角に検討をつけやすいとはいえ、離れていたでしょう」
「まあ、飛んだのは初めてだったから、全身が疲れた」
「本当に、会えてよかったよ、透」
夜の川のように光る透の目が細くなる。人の透を思い出させる表情だった。かつて、やさしい光を湛えて優果を見ていた、切れ長の目。うすくほほえむ口の代わりに、白いくちばしが閉じられている。羽毛におおわれたやわらかそうな身体は、ふくふくと呼吸を繰り返す。
「さわってもいい?」と優果が聞くと、透は快諾した。
おなかに触れた優果の指をぬくもりが包む。同時に、コトコトと速い鼓動が響く。透の時間は加速していて、優果を通り過ぎ、ひたすら遠くへいってしまいそうだった。
「透、生き急がないで、いかないで」
小さくて速い心音が優果の指を打ち続ける。
「ごめん」と透がささやくように言った。優果は慌てて「私こそ、変なこと言っちゃった」と指を引っ込める。
「でも」と透は何か言いかけて、もう一度「ごめん」とつぶやいた。
優果は残りのごはんを押し込むように食べ終えて、寝るための準備をする。夕食は、寝るための力を得るためのようなものだった。
もう眠るだけになって、優果はタオルを一枚取り出す。小鳥のねどこにちょうどいい大きさに畳んで、机の上に乗せる。
「よかったらベッド代わりに」と優果は声をかけた。
「よごれないかな」
「洗えるんだから大丈夫だよ」
「じゃあ、甘えさせてもらって……ありがとう」
タオルにおさまった透は、ほうっとあくびをして目をほそめた。
おやすみ、と静かな挨拶が交わされる。
優果はコップ一杯の水を汲み、睡眠薬を飲んでから布団に入った。灯りを消すと、部屋は夜によく馴染んだ。いつものようにスマホを眺めなくても、鳥になった透のことで頭の中をいっぱいにすることができる。優果の意識は優しく夜に溶けていった。
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