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十一 名前の呼び方
部屋の中には、みかんのいいにおいが漂っている。
「山登りのときって、志生は何年生だったっけ」
透の問いに、志生は笑いながら「同じ学年だよ。四年生に上がる前だから、三年生」と答えた。
無意識に二個目のみかんをむきながら、優果は「嬉しかった」とつぶやいた。
「先に卒業してしまうはずの志生が、最後までいてくれるんだと思って、申し訳ないけど嬉しかった」
くちばしを半開きにして二人の様子をうかがった透は、自らもまたつぶやく。
「わたしも嬉しかったかな。遠い影の中にいるような志生が、笑いながらそばにいてくれるようになって、嬉しくて、安心した」
志生は恥ずかしそうに笑って、窓の外に視線を逃がす。優果と透が二年生のとき、志生はいなかった。同時に透も三か月姿を消したが、残り二年の大学生活は三人身を寄せ合って過ごしたのだった。
「私こそ……優果と透が再び出会ってくれて、どれほど安心したか。先輩をやめたいというわがままも聞いてくれて、今も、そばにいてくれて……ありがとう」
志生の言葉に身がくすぐったくなったのか、透はちょんちょんと机の上でステップを踏んで言った。
「今ではすっかり馴染んだけど、はじめは緊張したな。先輩とか後輩って、たったひとつやふたつ学年が違うだけなのに、距離がある。その距離のおかげで親しみを保っていられる場合もあったけどね」
優果も同意を示しながら言葉を紡ぐ。
「たしかに、透が先輩か後輩だったら、仲良しじゃなかったかもしれない。でも、志生は不思議」
ぱちりと優果と志生の目が合う。
「志生のこと、緊張しながらも名前を呼び捨てにして、透のときと同じようにしゃべっていたら、最初からそうだったような気がした」
「そうか、緊張していたんだ」と志生はちょっと申し訳なさそうな表情をした。
「ときどきだけど、ふと、先輩だったときの感覚がよみがえる。今でも」と優果が付け足したら、透も同意を示した。先輩、志生先輩と呼んでいた時も、優果や透にとっては大好きな時間だった。あまり長くは語らない志生の言葉を引き出したいくらいに、二人は志生を慕っていた。
「志生にとっては、呼び方が大事だったんだね」
透が問いかけるように言うと、志生は静かな目をしてうなずいた。
「大学生の頃、私の名前をそのまま呼ぶのは親だけだった。親は、私の名前に強く意味を見出していた」
優果はどきりとして、自分の名前の由来を聞いた時のことを思い出した。優れた結果を残し続けられますように……それは、優果を追い立てる原因のひとつとして、いつも影の中に潜んでいる。優果は口を引き結んだ。
「志生、と呼びかけるとき、」透が言う。「わたしはなんとなく、そこかしこに生命がひそめく四季を想像している。漢字は、こころざし、と、生きる、だけどね」
「そう、『生きる』の生だったらよかった」と志生の声が低くなる。
「私の生という字は、『生きる』ではなく、『生みだす』という意味で選ばれた。画家と作曲家の二人なら、生み出さねばらならないという焦燥感がわかるはずなのに、子どもには『生みだすことを志す』と名づけるなんて、信じられない」
奥光りする志生の目は険しかったが、次第にやわらかく、落ち着いていった。
「優果と透は、ただ私を呼ぶための音として『しき』と声にする。意味なんてない。それは、私にとっての呪いを、弱めてくれた……」
「じゃあ、名前の意味はわたしたちに教えないべきだったのでは」
透が心配そうにすると、志生は「大丈夫」と晴れやかな顔をする。
「機会があれば、名前の呼び捨てにこだわってしまった理由を話してもいいと思っていたし、名前の意味は絶対じゃない。いくらでも解釈できるんだから、もう気にならないよ」
志生と目があった優果は、頭の隅に隠れた記憶が光った気がした。探るように、今の話を反芻する。志生と名前、呼び方、付けられた意味、解釈された意味……大学のサークル棟にある部室の風景が現れて、いい風が吹く。頭にかかった霧は晴れ、優果は思い出す。
優しいのゆうに、果報のか。先輩として出会った志生は、名簿を見ながらそう言った。カホウ、とすぐに変換されなかった優果に、よい知らせという意味の果報、と志生は言った。物語創作会に入ろうと、部室を訪れたときの記憶。
ずいぶん前に、呪いは解かれようとしていたのだ、と優果は瞬いた。
「どうした?」と志生が心配そうに手をひらひらさせる。
「大学生になったばかりの頃を、思い出していた」
優果が答えると、透がおもしろおかしそうに「優果ちゃん」と言った。
「そう呼ばれていた時期もあったね」
「私は、優果ちゃん、透ちゃんって呼んでたっけ」
「そうだったよ。私は透のこと、透くんって呼んでいたけど、そのうち『透って呼んでよ』って志生もいるときに言われた記憶がある」
「言った気がする」
そんなに昔のことではないのに、懐かしいと思うことが優果は寂しかった。一方で、一緒に振り返る記憶が多いことに幸せを感じた。出会ったときからずっと、続いている地点にいる。
志生は食器を片付け始めていた。手伝いながら優果は、みかんのべたつきを気にしている透用にと、水を張ったボウルを風呂場に置いた。
「お風呂場、借ります」
「どうぞ」
「私は台所を借りてもいいかな」
「もちろん。むしろ、ありがとう」
志生はおせち料理を用意し始めた。作れるものは作る、と下ごしらえしておいた分も取り出して、手際よく動く。
ちょっとお昼寝しててもいいよ、という志生の言葉に優果は甘える。やわらかな光に満ちた部屋の中、ぜんぶ溶けてしまいそうな眠気が自然にやってくる。何も心配せずに眠れる唯一の時間だった。
優果が目覚めた夕方は、いろんなおいしそうなにおいが混ざり合っていた。おせち料理について、大晦日から食べ始めてもいいし、元旦からでもいい、と志生は言った。トオシの町の文化ではそうなっている。
明日の大晦日から元旦にかけて、志生は神社に泊まり込みで助勢勤務である。優果の希望で、一月二日までの志生の拠点はここになっている。
志生の早起きに合わせて、夜は早めに明かりが消えた。
「おやすみ」と三つの声がささやき合う。
優果は一旦ベッドに横になったが、眠りが訪れなかったため、そっと起き上がった。もしかすると薬なしで眠れるかもしれない、という期待はまだ早かったし、勝手な判断で服用をやめることも危ない。いつも通り睡眠薬を飲んで、眠りについた。
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