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十二 ゆく年
早朝というよりまだ夜明け前の空の下、始発に乗る志生を送り出した優果はそのまま起きていた。一度目覚めたら眠れない。静かにカーテンをあけて光を待つ。夜の底で、過ぎていく時間を呼吸だけが数えている。
やがて、明るくなっていく部屋の中、目覚めた透が優果に気が付いて「おはよう」と言った。優果の気持ちもようやく目覚めを感じた。
軽い朝食を終えて片付けると、優果は眠気を感じる。うららかな光の中に降りてくる、穏やかな眠気。
優果は夢を見る。それは、何かを思い出せなくて困っている夢。好きだったということは覚えている。心は軽やかに歌うような心地なのに、その気分を引き出してくれたものを思い出せない。手の中には、さっきまで何かがあったという感触だけが残っている。
かすかな音色が聞こえて、どこから聞こえるのかと辿っているうちに優果は夢から覚めた。音色は、透の歌だった。
立ち上がろうとした優果は、よろけて段ボールにぶつかった。
「大丈夫?」
透が飛んでくる。「平気」と優果は、ずれた段ボールを戻した。
「よかった。それは、何が入っているの?」
透の問いに優果は首をかしげて、「なんだったかな。広げたら片付けるのが大変だから、もう、ずっと見ていない」と苦笑した。
大晦日の夜はやわらかに静かだった。年末であることを騒いだり、もうすぐ年が明けることを駆り立てたりすることはない。
志生が置いていったおせちは、鮮やかに美しいものだった。雑煮、だて巻き玉子、柚子入りのなます、田作り、栗きんとんなど。
優果は年越しそばを食べつつ、おせち料理もつまんだ。透は、においと色や形を楽しんでいるらしい。「昆布巻きは、よろこぶと掛けているんだよ」などと、ときどき思い出したように透は言った。
豊穣や健康を祝ったり、めでたさをふんだんに詰め込んだりして、細かく、たくさん作るのは大変だと優果は感心した。年に一回でも、なかなか作ろうとは思えない。志生は酒蔵で仕事をしている合間に、お世話になっている家のおせち料理作りに参加したらしい。男女関係なく、少しずつ時間を取って交代しながら、みんなで作るのだ。
優果はぼんやりと疑問を持つ。
「志生は、私たちの健康を願って、と言っていた。どうしてそれだけで、ここまでできるんだろう」
聞いていた透は、身体を伸ばしながら答えた。
「わたしたちが志生を好きなように、志生もわたしたちを好きなんだよ」
透の声は確信を持っていた。
確認するように、優果は声を出す。
「私たちは、志生が好き」
間違いない、と優果は思う。
「志生も、私たちを好き」
それは透と同じで、優果も信じている。
透が小瓶をつついて、「金平糖もあるよ」と言った。
小瓶にはカラフルな金平糖が入っており、見た目がキラキラとかわいい。優果の心は晴れやかになる。手を出しかけて、「あ、いちごもあったよね」と立ち上がる。金平糖は透が食べられないので、気にしたのだ。
いちごは三つ洗われて、ひとつは小さめに切られた。いつもの小皿に乗せられて、食卓に並ぶ。
「優果って、金平糖が好きだったよね」
透が少し不安そうに言った。
「好きだよ」
「よかった。大学生のとき、持ち歩いていたよなって思って。記憶は正しかったね」
志生が食べたいものを聞いたとき、透は、金平糖と言った。私が好きなものだから選んだのかと、優果は気が付いた。
「そう、私、金平糖が好き」
金の蓋を開けて、星粒みたいな金平糖をつまむ。口の中で転がして、噛んだら、シャリとひそめいて甘みがにじむ。
「透、ありがとね」
「いえいえ。わたしもいちごがおいしい」
かじっては顔を上げる透は、くちばしを細かく動かして熱心に食べていた。
日付が越える前に就寝しようと優果は決めていた。苦痛ばかりの勉強はお休みして、湯船にゆっくりつかり、のんびり寝支度する。明日以降のことは考えない。
頭がギシギシと冴えるようなことはなく、身体が眠りを受け容れようとしているのを優果は感じた。眠たくはないが、眠らなければという焦りはない。
ちゃんと薬を飲んだら「おやすみ」と明かりを消して、夜にひそむ。まだ透が起きている気配が漂っている。
「優果」と小さな声が届く。「今年はいい年になったかな」
「終わりよければすべてよし、とするなら、いい年だったよ」
透と再会した十二月一日を思いながら、優果は布団の中でほんのり笑う。目の前に現れた小鳥が友人だなんて、信じられないような出来事をすんなり受け入れたあの日が不思議だった。
「そっか。わたしもね、なんだか、いい年だったと思えるんだ……年を越せるようで、よかった」
透の眠そうな声が消えていく。
透との再会は一筋の救いだった、と優果は確信している。透が現れて、志生が帰ってきて、呼吸が楽になった。明日が怖くない。
志生は今頃、甘酒のにおいが立ち込めた境内で忙しくしているのだろうか。いつか、もう少し元気になったら、大晦日の神社に行ってみたい。志生が奉仕している神社へ、透と一緒に行けたなら……考えごとを続ける頭はとろりと溶けだし、優果の寝息が夜に馴染んでいく。
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